(2000年8月に書いたものです)

 性善説、性悪説、白紙説(タブラ・ラサ)。

 人間の本性についての代表的な3説です。

 みなさんはどれを支持されますでしょうか。

 
 最近どうも、仕事などの疲れからか、「人間の本性は『悪』なんじゃないかなあ」と、悲観的な思いに駆られます。

 ただ、僕の思う「性悪説」は、悪人のいない(しかしそれ故たちの悪い)ものです。


 人間はどのようにして自己の行動に対して善悪の判断を行うのか。

 もちろんそれは自己の価値観と知識に基づくものでしょう。

 では、その価値観はどのように形成されるか。

 それには、自分以外の存在が居るとする認識、すなわち他者認識が必要だと思うのです。

 「価値」というのもは、単独ではその意義は発生することがありません。必ず他者との関わりが「価値」にとって必要です。

 
 この「価値観の共有」の範囲が広い人は、大変豊かな人と言えるでしょうが、ある意味で不自由さを許容しなければなりません。

 価値観を受け入れるということは、その価値観に拘束されてしまうからです。

 逆に言うと、あらゆる価値観を拒絶する者はなにものにも縛られることはありません。うらやましいくらいに自由です。

 しかし、あらゆる価値観を認めない者にとって、世界はどのように映るのでしょうか。いえ、果たして世界が存在するのでしょうか。


 例の岡山金属バット殴打事件で指名手配になり、北陸で逮捕された少年の鞄の中身は、ほとんどがゲーム関係の機材と本で占められていたそうです。
 
 「どうしてゲームなんかを持っていくのだ?」と、首をかしげる人も多いことでしょうが、恐らくはその鞄の中身のゲームこそが、少年の世界そのものだったのでしょう。

 一心不乱にペダルをこぎ続けた少年の世界は、彼の周りの風景ではなく、鞄の中のゲームだったのです。

 少年の金属バットを振り下ろすという行為は、社会的には悪ですが、少年にとっては「拒絶」だったのではないでしょうか。

 留置所の中で「放心状態で居る(接見した弁護士談)」少年、それは事ここに至って拒絶不可能な圧倒的な他者の存在(刑事罰)を初めて認識したからではないでしょうか。

 まあ、こういう事件の「真相」というものを論議しても、虚しさが募るだけですが。

 
 ひとつ、たとえ話をしましょう。お坊さんから聞いた説話です。

 「思いやりのある家は、悪人ばかりになる。思いやりのない家は、善人ばかりになる。」

 あれ?逆じゃないか、と思われるでしょうが、こういう事です。

 例えば、家の中の花瓶が割れたとしましょう。

 思いやりにあふれた家では、「私がうっかりしていたのが悪かったよ。」「いいえ、私がこんな所に置いたのがいけなかったのよ。」「違うよ。僕が話しかけたのがいけないんだ。」と、みーんな『悪人』になってしまいます。

 いわずもがなですが、思いやりの無い家では、「こんなところに花瓶があるのがいけないんだ。」「おまえが話しかけるのがいけないんでしょう。」「なんだよ。父ちゃんがドジなだけじゃないか。」と、『悪人』は存在しません。

 
 そして悲劇は、「価値観を許容する者」と「価値観を拒絶する者」が出会うときに発生します。

 そこで演じられるのは不条理です。

 何処にも悪人は居ませんが、『悪』が発生します。

 
 人間の存在は、その存在そのものが『悪』を発生させる可能性を持つのです。


 もちろん、同様に『善』を発生させる可能性もあるのだ、と、そういう価値観を許容したいものです。