ジェンダーと「選ばされること」
ジェンダーの問題は、格差の問題と重なりながら、単純にはそこへ還元できない。
たしかに、ジェンダーは所得、雇用、昇進、ケア負担、発言機会、可視性といったかたちで、社会的な不均衡と深く結びついている。誰が家事や育児や介護を多く担うのか、誰の仕事が補助的なものと見なされやすいのか、誰の怒りが「感情的」とされ、誰の主張が「理性的」とされやすいのか。そうした差は、明らかに社会の資源配分や評価の偏りとつながっている。その意味で、ジェンダーの問題はたしかに格差の問題でもある。
しかし、ジェンダーの問題には、格差という言葉だけでは捉えきれない層がある。それは、人がどのような生き方を「自分で選んだ」と感じているのか、そしてその選択が、どこまで社会的な期待や役割の圧力や評価の非対称によって形づくられているのか、という問題である。ある人は家庭を優先することを選んだと言うかもしれないし、ある人は感情を抑えることを身につけたと言うかもしれない。あるいは、人前では強く出すぎないようにしているとか、仕事よりもケアを引き受けるほうが自然だと感じているかもしれない。その一つひとつが本人の選択であることは否定できない。だが同時に、その選択の背後には、幼い頃から繰り返し与えられてきた期待、「らしさ」の規範、それに従わなかったときの違和感や嘲笑、あるいは沈黙のうちに示される評価の差がある。
この意味でジェンダーの問題は、選択がどこまで自由でありうるのかという問いを、もっとも身近なところから揺さぶる。
私たちはしばしば、自由を「複数の選択肢があること」として理解する。しかし実際には、ある選択肢は最初から自分のものとして感じられ、別の選択肢は、形式の上では存在していても、自分には向いていないもの、選ぶべきではないもの、あるいは選んだときに大きな代償を伴うものとして感じられることがある。そのとき人は、選んでいるように見えながら、かなり深いところで選ばされているのかもしれない。
たとえば、ケアの問題がある。家族の世話をすること、子どもを育てること、身近な誰かの感情を引き受けること。これらは人間の生にとって重要で、尊い営みでもある。だが、その役割が特定の性により強く期待され、しかもそれが「自然なこと」として語られるとき、そこでは負担の配分そのものが見えにくくなる。本人が進んで引き受けたように見えても、実際には「引き受けない」という選択肢が、道徳的に、感情的に、あるいは関係の維持という意味で取りにくくされていることがある。このとき、選択は選択でありながら、同時に強く条件づけられている。
同じことは、公共空間での振る舞いにも言える。強く語ることが歓迎される者もいれば、同じ強さで語ることで「攻撃的」と見なされやすい者もいる。感情を交えて語ることが「人間味」とされる場合もあれば、「未熟」や「不安定」として退けられる場合もある。つまり、語り方そのものに対する評価が対称ではない。そのとき人は、単に何を語るかだけではなく、どう語れば罰せられずに済むのかを先に学ばされる。それは声を持つための条件の問題であると同時に、ジェンダー化された公共性の問題でもある。
ここで見えてくるのは、ジェンダーの問題が、単に「男女の役割分担」の問題ではないということである。それはむしろ、人がどのような欲望を持つことを許されるのか、どのような生き方を自然なものとして想像しうるのか、どのようなふるまいが危険で、どのようなふるまいが無難とされるのか、そうした可能性の地図そのものが、あらかじめ偏っているという問題である。この偏りは、単なる所得格差よりも深いところで、人の自由と自己理解に入り込む。
だから、ジェンダーの問題は格差の問題と重なる。だが、そこに完全には回収されない。なぜなら、ここで問われているのは「何を持っているか」だけでなく、「何を望んでよいと思えるか」「どのように振る舞えば罰せられないか」「どんな役割を自分のものとして引き受けさせられているのか」ということだからである。ジェンダーの不均衡は、資源配分の差としても現れるが、それ以上に、可能性の想像力そのものの差として現れる。
この意味で、ジェンダーの問題は、本考察で言う「可能性の剥奪」を考えるうえで、きわめて示唆的である。貧困が、人から休む自由、断る自由、逃れる自由を奪うように、ジェンダー規範もまた、ある人には強くあることを、ある人には従順であることを、ある人にはケアを引き受けることを、ある人には感情を抑えることを、それぞれ自然な役割として背負わせる。そのとき失われるのは、単に選択肢の数ではない。別の生き方を自分のものとして想像する回路そのものが、静かに痩せていく。
ここで重要なのは、このことをもって個人の選択をただちに否定することではない。ある生き方を本人が愛していることもあるだろうし、ある役割を自ら引き受けることに意味を感じることもあるだろう。問題は、それが本当に開かれた選択の結果なのか、それとも他の可能性が見えにくくされたうえでの選択なのか、その境界を問うことである。ジェンダーの問題は、この境界がどれほど曖昧で、しかも社会的に作られているかを教えてくれる。
この意味で、ジェンダーは本考察の本筋から外れる論点ではない。むしろそれは、人が何をどこまで自分で選んでいるのか、どのような条件のもとで選ばされているのか、そして自由とは単なる権利ではなく、選択肢を自分のものとして引き受けうる条件なのだということを、鋭く照らし出す補助線である。もし自由を本当に考えるなら、私たちは「選べるかどうか」だけでなく、「何が選択として想像され、何が最初から退けられているのか」を見なければならない。ジェンダーの問題は、その見えにくい境界を可視化する。だからこそ、格差をめぐる考察の中にジェンダーを差し挟むことは、決して不自然ではない。それは、富や所得の偏在だけでは捉えきれない、もう一つの「可能性の偏在」を見るための、静かだが重要な入口なのである。