2. 市場の自由と現実の非対称
市場を語るとき、私たちはしばしば「自由」という言葉を用いる。
売る自由。
買う自由。
参入する自由。
契約する自由。
市場は、強制ではなく選択によって動く空間であり、
それゆえに近代社会において、自由の制度的な表現の一つと考えられてきた。
国家が一方的に命じるのではなく、
人々が自らの判断で交換を行う。
この点で市場は、たしかに自由の場であるように見える。
だがここで、立ち止まって考えなければならない。
形式的に自由であることと、現実に対等であることは同じではない。
たしかに、誰かに銃を突きつけられて契約するのでなければ、
その契約は自由な合意のように見える。
だが、その自由は本当に同じ自由だろうか。
例えば、ある二人が『自由な』交渉の場につくとする。
片方は、断っても明日を生きられる。
片方は、断れば今日の生活が成り立たない。
そんな二人が同じテーブルにつき、同じ契約書に署名するとき、
そこにある自由は、同じ重さを持っているだろうか。
市場の自由をめぐる根本的な問題はここにある。
市場は、法的にはしばしば対等な主体のあいだの交換として描かれる。
売り手と買い手、雇い手と雇われる者、貸し手と借り手。
それぞれが自らの意思に基づいて選ぶ。
この構図は、制度の表面としては正しい。
だが実際には、その背後にある資本、情報、時間、交渉力の差が大きければ、
自由な交換は、すでに深く非対称な交換である。
たとえば、仕事を探している人を考えてみよう。
形式的には、その人には「働く自由」がある。
どこで働くかを選ぶ自由がある。
だが現実には、生活費が尽きかけているなら、
その自由はきわめて薄い。
労働条件が悪くても、賃金が低くても、
いま収入が必要であるという事実が、選択肢を狭めてしまう。
他方で、雇う側に時間と資本の余裕があれば、
より有利な条件で人を選別できる。
ここでは、契約はたしかに自由な合意の形をとっている。
だが、その自由は左右対称ではない。
同じことは、住まい、教育、医療、金融の領域でも起きる。
家を借りる自由があると言っても、
保証人がいない、収入が不安定、貯蓄が乏しいという条件があれば、
その自由は制約の中でしか行使できない。
教育を受ける自由があると言っても、
学費や生活費や準備時間の差が大きければ、
その自由は人によってまるで違う現実を持つ。
お金を借りる自由があると言っても、
信用の差が大きければ、
低利で借りられる者と高利でしか借りられない者のあいだに、
すでに未来の差が刻まれている。
市場の自由は、こうしていつも、
前提条件の差を抱え込んでいる。
ここで見えてくるのは、自由の二重性である。
一方で、市場は強制からの自由を与える。
国家や共同体がすべてを決めるのではなく、
個々人が選ぶ余地を残す。
これは近代的自由の重要な達成である。
だが他方で、市場の自由は、
どのような条件のもとで選ぶのか
という問いを自動的には解決しない。
むしろその条件が大きく異なるとき、
自由は平等の保証ではなく、
不平等をそのまま表現する形式になってしまう。
この点を見失うと、私たちは「自由に選んだのだから公平だ」という理解に傾きやすい。
だが本当にそうだろうか。
自由に見える選択の背後に、
待てる者と待てない者の差がある。
失敗しても戻れる者と戻れない者の差がある。
情報を集められる者と集められない者の差がある。
条件を交渉できる者と、提示された条件を受け入れるしかない者の差がある。
そのとき市場の自由は、
選択の自由であると同時に、
すでにある差を結果に変換する装置にもなっている。
市場の非対称は、露骨な支配の顔をしていない。
そこに、この問題の見えにくさがある。
命令されているわけではない。
表向きには、本人が選んでいる。
だから私たちは、その結果を個人の責任として理解しやすい。
悪い条件の仕事を選んだのは本人だ。
高い金利で借りたのも本人だ。
条件の悪い地域に住んでいるのも本人の事情だ。
こうして市場の結果は、個人の選択のかたちをとることで、
構造的な非対称を見えにくくする。
だが実際には、非対称そのものが選択を形づくっている。
急いで現金が必要なら、
本来なら受け入れたくない条件でも受け入れるしかない。
他に比較する余裕がなければ、
不利な契約でもその場で決めるしかない。
支えてくれる家族も資産もなければ、
安全より先に生存を優先しなければならない。
そのとき市場は、自由の場であるというより、
異なる重力場の中で人々が動かされる場になる。
そして、この非対称はしばしば自己強化的である。
よい条件で借りられる者は、さらに有利な投資ができる。
よい条件で住める者は、健康や教育や仕事の面でも有利になる。
よい条件で働ける者は、よりよい履歴や信用を蓄積できる。
逆に、不利な条件で契約した者は、その不利のためにさらに次の選択肢を失いやすい。
市場はここで、
非対称を一回かぎりの交換にとどめず、
次の非対称の条件へ変えていく。
このことを考えると、市場の自由を擁護する言葉も、
そのままでは十分ではないと分かる。
自由な交換は重要である。
だが、自由な交換だけでは、交換の条件の非対称をならすことはできない。
むしろ場合によっては、その非対称を自然なものとして固定してしまう。
だから市場の自由を本当に擁護したいなら、
自由がどのような地面の上で行使されているのかを問わなければならない。
どのくらいの資本格差があるのか。
どのくらいの情報格差があるのか。
どのくらいの時間格差があるのか。
どのくらいの失敗可能性の差があるのか。
そこまで含めて見なければ、自由は単なる理念にとどまる。
言い換えれば、市場の自由をめぐる問題は、
自由を否定することではなく、
自由を現実に対等なものにする条件は何か
を問うことである。
もし一方が生き延びるために選び、
他方がより有利な条件を待ちながら選ぶのだとしたら、
両者の自由は、法文上は同じでも、現実の中では異なる。
この差を見ないかぎり、市場の自由は、
しばしば強い者の自由を守る言葉にはなっても、
弱い者の自由を広げる言葉にはならない。
ここまで来ると、市場の問題は単なる価格や効率の問題ではなくなる。
それは、社会の中でどのような主体が、どのような条件で選びうるのかという、
自由の実質の問題になる。
市場は本当に均すのか、という問いは、
市場が本当に自由なのか、という問いと切り離せない。
そしてその自由は、形式だけではなく、
現実の非対称の中で測られなければならない。
この視点から見ると、次に現れてくるのは、
競争がもはや単なる競争ではなく、
勝者総取りの構造へと傾いていく現象である。
競争の場があることと、
その場が多様な主体を持続的に生かすことは、
同じではない。
だから次に考えるべきなのは、
市場がどのような条件のもとで、
「勝者がほとんどを取る」構造へ傾いていくのか、ということである。