多くの人が「多文化共生社会は望ましい」と口では言える。ここには、現代の道徳がすでに“正解の形式”として共有されている、という事情がある。だからこの命題は、議論の場で正面から否定されにくい。否定すれば、自分が「非人間的だ」と見做されるリスクを負うからだ。ところが、社会で拡散しているのは、命題そのものへの反論というよりも、命題が要求するコストへの拒否である。
共生は理念としては軽いが、実践としては重い。言語の壁、制度の調整、治安への不安、雇用や福祉の再配分、学校や地域の摩擦——それらは「正しいこと」を掲げるだけでは消えない。ここで人々は、理念の肯定を保ちながら、現実の不安を引き受けずに済む抜け道を探す。「私は共生に賛成だ、ただし——」という形で、条件節の中に排他が滑り込む。排他は“反倫理”ではなく、“例外処理”として現れるのだ。
さらに、排他的主張には哲学的に言えば「世界を単純化する快楽」がある。複雑な因果を追うより、「原因は外部の他者だ」と語るほうが、理解も共有も容易で、怒りや不満の行き先も定まる。共同体は不確実性に耐えるより、物語に依存する。とりわけSNS的環境では、短い断定、分かりやすい敵、即時の連帯が報酬として与えられ、熟慮や留保は損になる。
つまり矛盾は、「多文化共生を望む」という理念と、「不安を管理したい」という欲望の同居として理解できる。理念が否定されないのは、人々が善を捨てたからではなく、善を“掲げたまま”生存の不安に対処したいからだ。だから必要なのは、理念を繰り返すことだけではない。共生が要求する負担を誰がどう引き受け、どこまでを社会が保証し、どこからを相互の努力に委ねるのか——その具体の設計を言語化し、可視化し、分配することだ。理念と実装のあいだに橋が架からない限り、社会は「正しい言葉」と「排他的な例外」の二重帳簿を、静かに増やしていくだろう。