何かにならなきゃ   いけない病

 

今日は日頃、無意識に自分自身に対してやってしまっていた盗みと暴力について感じたことをまとめました。

 

ヨガの教えの中に、八支則といって日常生活の中で、他人や自身に対し、また物に対しても慎むべき心得があります。

 

環境や人間が良い関係を保つために自制すべきことが記されているのですが、私はヨガ講師になりたてで、生徒さんがまだあまりいない時期に、何か大きな偉大なものを模索し始めてしまっていました。そう、私は私以上の全く別の立派な【何かにならなきゃいけない病】にかかっていたのです。(笑)

 

自己肯定感が低い人の心理的特徴7つと高める方法 | Style Knowledge

 

友達からもらった言葉

 

ヨガの先生たちのように、愛と自然に繋がるヨガをしたいと思って、精神性を磨き続けてはきましたが、そんな時、同業のヨガ講師として、信頼をおき多くを学んでいる先輩からもらった一言に目からウロコが落ちました。先輩は、コロンビアで活躍する素晴らしいプロのヨガインストラクターです。  

【ある人の真似をして、何々みたくなる!その状態って、アスティア (盗み)になりかねない。】

 

 そう、つまり結論は 【自分自身であれ!】ということです。 そもそものスタートが自分から離れてしまっていて、他の人のもので埋め合わせしようとする。相手に対してのアスティア= 盗みになる行為にもなりかねないと。 例えばヨガの先生はレッスンで、【私は種をあげるけど、花を咲かせるのはあなただ】と言います。だから全てを兼ね備えている自分自身を、大事に出来ない意識のあり方は、アヒムサ=自身への暴力にもなりかねないと言うのです。

 

Boy (8-9) stealing cookies - Stock Photo - Dissolve

 

   アステーヤ Asteya不盗と           アヒムサAhimsa非暴力

 

  • アステーヤ Asteya とは =不盗
    盗まないことを意味します。他人の所有物を奪わないこと、また、自分だけで独り占めしたり、欲張って必要以上に所有しようとしないことを指します。
 
  • アヒムサAhimsa=非暴力
    非暴力、非殺生を意味します。肉体的な暴力だけでなく、精神的な暴力、言葉の暴力も振るってはいけないとされます。他人だけでなく、自分自身に対しても同様です。

    悪口も言わない。動物や植物、道具にも暴力的にならないように、何事に対しても思慮深くあることが大切だと言われています。

みなさんは、いかがでしょうか?無意識に、自分が自身や相手に対して暴力や、盗みなどしていないでしょうか?

 

たとえば、わかりやすい例でいうと、自分が約束に遅れて、人を待たせてしまうこともあります。この時、相手に対しその待ち時間の間、なにか他の事をする「機会」を奪ってしまっていることにもなります。私にも耳に痛い言葉なのですが、相手の時間を盗まないようにしましょう。

 

また分からないことを、その道のプロの方や上司先輩に自分で調べずただ聞いてお終いにしてしまう時、これも知識の盗みになります。

 

また、分からないことを聞くのが恥ずかしくて分かりません!と言えずに、体裁宜しく取り繕って知ったか振りをする時などもあります。嘘を付くのも自身と他人に対する暴力になってしまいます。

 

 

「われわれはすべて盗人である」

 

でもヨーガ経典では「われわれはすべて盗人である」と最初に記載されています。それは、盗むことなく生きていられる人は存在しないからです。

 

だからここで大切なのが、「奪っているかもしれない自分」に気づき、自覚すること。つまり私たちは、他の命を頂き、地球や自然界から空気を得て、結局は誰かの犠牲の上に生かされている存在なのですね。

 

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やっぱり常に内に向くあり方

 

やっぱり、 ヨガは常に内に向く、 自分自身と向き合う、自分軸を大事にしているんだなと痛感します。

 

瞑想や体操などの練習は、一人でもできます。自分自身を純粋な状態に近づける練習を日々繰り返しやってみましょう。

 

それは、誰かのために行う犠牲的なもの、人から依頼された強制的なものではなく、ただ自分自身のために自覚して行うものです。

 

そしてそんな自分が、自分らしい花をつけた時 、外の景色と一体となり 、地球や宇宙との 一体感(本当の私=真我)を感じられるんだろうなと思います。

 

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嫉妬さえも可能性に変えて

 

 

この内観をする過程の中で、一旦立ち止まったり、方法を変更したり、それらは全て想定内です。~しなければいけない、という変化させないあり方こそ、自身へのアヒムサ=暴力になるからです。

 

しかし私は過去に、それでも上手く内観が出来ない自分が続き、イライラした経験があります。そこで目に付いたのが、そこを上手く内観し自分軸をしっかり整えている<私以上に立派に見える他の人たちの存在>でした。

 

このような比較から生まれる感情の1つに<嫉妬>があります。嫉妬は、たいてい自己肯定感の低い状態や、満たされていない状態から抱く羨ましいと思う感情です。

 

自分に対する内観の立ち位置が、すでに何かが欠けているから始まってしまっていて、〇丸(完全な形)から自分を認めていないがために起こってしまう嫉妬。せっかく、自分に向き合ってこそ得られた感覚なのに、放っておくと自分を大事にしていないアヒムサ=暴力に繋がってしまいます。じゃあ、嫉妬してしまった時、どうしたらいいか?

 

 

憧れと嫉妬は表裏一体

 

 

私にとっての嫉妬は、憧れと表裏一体、決して悪いものではありません。

 

憧れが、素敵だわ、いいなぁ、という丸い心から発したあり方。根本はまだ見ぬ私や環境への私の可能性を信じる気持ちから生まれたものだと思っています。

 

一方で私にとっての嫉妬は、自身に対して何かが欠けているという欠如心から生み出されたあり方。埋め合わせたい、やり切れない、どうしたらいいのか分からないといった癒しや自身の変化を切望しているこちらも、私の可能性を秘めたあり方だと思っています。

 

憧れと嫉妬。私の場合、どちらが良い悪いという表現ではなく、相反するように映る二つが、実は私の心の深い部分では【私らしい可能性】として結びついている。これはアスティアでもアヒムサでもなく、少し視座を上げてみたら見えて来る「全ては良い方向へ導かれているんだよ」というエッセンスなのです。

 

私たちは本来、自分らしさがいっぱい詰まった可能性の塊、こう内観が教えてくれた人生の本質でした。

 

 

 

「私らしく変われる可能性へのサイン」

 

だから嫉妬できた時点で、「私らしく変われる可能性へのサイン」と捉えています。そこから、私の無限の可能性が広がるチャンス到来と自分を信じて、またそこから内観に励むのです。

 

これが、アスティア(盗み)やアヒムサ(暴力)が

サントーシャ(感謝)へ変わる時。

サントーシャ Santosha
「足る」を知ること。与えられた環境、自身に感謝し、満たされていることに気付き満足することが大切とされています。

 

人は本来、みなそれぞれに最高に咲き誇れる素質と可能性を持っています。ただ、それに気が付くまで、自信ができるまで、自分軸が立ちあがるまで、日々練習を繰り返し行うのだと思います。そしてこれが自然とできるようになった頃に、無意識に内観が自分の一部になってしまっているんだと思います。

 

この練習も慣れてくると、空気をただで吸っていることにさえ、自然界への感謝に繋がってきます。呼吸が、自然界から奪ったものにならないように、意識した丁寧な呼吸を、優しい呼吸を、純粋な呼吸を、こうした日々が重なって、ついには意識が変わり、行動が変わり、ついに人生が変わり形作られて行くのです。

 

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それでは、今日も感謝で終わります。ありがとうございました。ラブ