どうして私は人生に対してもっとマゾになれないんだろうね。
結局、私は自分が一番大切なのだ。
俺の時間、俺の成功、俺の金、俺の居場所、俺の安心。
どこまでいっても俺、俺、俺。そこから見えるのは果たして何?
そんな風に、未熟な自我に振り回された私に対する超自我の冷たい囁きが、布団に潜るたびに私の神経を意地悪く突き回している。
その度に私は過去の大言壮語を恥じ、昔得意気に人に語って聞かせた雄弁を恥じ、滑稽な自己像の走馬灯を拷問のように見せ付けられるのだ。
「人間は結局、自分の幸せが一番大事なんだから、それでいいんじゃない?」
というのは最もな意見だ。しかし、私は自分の人としての在り方に対する美的欲求がとても強い。自分の行動や言動を俯瞰して直視し、それが自分の「かくあるべし」とする主観的基準を満たしていない場合、私の自我存在はとても不安定なものになる。
典型的な「神経症」の思考パターンだろう。すなわち、「自分に対する理想が高い」のである。
さんざ与えてもらってばかりの癖に。
自分が与える側になるとことさら針小棒大に自分の行為を過大視して、対価が無い事に対する不満を隠せない。両親からの無償の愛を注がれてきた身で、何様のつもりなのだろう。
重たい荷物があったら、黙ってスッと持つ。お礼は背中で受けて、聞こえないふり。
疲れた人を見かけたら、自分の席をスッとたつ。
さも次が自分の降りる駅であるかのように、礼を言わせぬよう自然に去る。当然の事をただやるだけで、食う寝る事と変わらない。
自分の損など考えない。自分の時間を誰かに使う事を、自分の存在を証明する誇りとする。
それが、俺の目指していた生き様だったのに。現実の私のなんと狭量なことか・・・。
最低、死にたいと何度も繰り返し力強く腹のそこからつぶやいてみても、渦巻く自責と後悔の念は断ち切れない。
変われないんじゃないかと思う。自分は結局、昔から何も変わっていないんじゃないかと思う。
無力感に打ちひしがれている。
(あまりにも自己否定的な内容だが、私の心を通り過ぎた刹那の感情としてここに書きとどめておく。人の思いは時の流れによって悲しい程に変わっていく。この感情の嵐も、いつかは止んで、また同じ事を繰り返すのだろう。故に、私は一時の自己否定の感情を意識的に保存する。私の未熟な自我の手綱を失う事に対する備忘だ)
結局、私は自分が一番大切なのだ。
俺の時間、俺の成功、俺の金、俺の居場所、俺の安心。
どこまでいっても俺、俺、俺。そこから見えるのは果たして何?
そんな風に、未熟な自我に振り回された私に対する超自我の冷たい囁きが、布団に潜るたびに私の神経を意地悪く突き回している。
その度に私は過去の大言壮語を恥じ、昔得意気に人に語って聞かせた雄弁を恥じ、滑稽な自己像の走馬灯を拷問のように見せ付けられるのだ。
「人間は結局、自分の幸せが一番大事なんだから、それでいいんじゃない?」
というのは最もな意見だ。しかし、私は自分の人としての在り方に対する美的欲求がとても強い。自分の行動や言動を俯瞰して直視し、それが自分の「かくあるべし」とする主観的基準を満たしていない場合、私の自我存在はとても不安定なものになる。
典型的な「神経症」の思考パターンだろう。すなわち、「自分に対する理想が高い」のである。
さんざ与えてもらってばかりの癖に。
自分が与える側になるとことさら針小棒大に自分の行為を過大視して、対価が無い事に対する不満を隠せない。両親からの無償の愛を注がれてきた身で、何様のつもりなのだろう。
重たい荷物があったら、黙ってスッと持つ。お礼は背中で受けて、聞こえないふり。
疲れた人を見かけたら、自分の席をスッとたつ。
さも次が自分の降りる駅であるかのように、礼を言わせぬよう自然に去る。当然の事をただやるだけで、食う寝る事と変わらない。
自分の損など考えない。自分の時間を誰かに使う事を、自分の存在を証明する誇りとする。
それが、俺の目指していた生き様だったのに。現実の私のなんと狭量なことか・・・。
最低、死にたいと何度も繰り返し力強く腹のそこからつぶやいてみても、渦巻く自責と後悔の念は断ち切れない。
変われないんじゃないかと思う。自分は結局、昔から何も変わっていないんじゃないかと思う。
無力感に打ちひしがれている。
(あまりにも自己否定的な内容だが、私の心を通り過ぎた刹那の感情としてここに書きとどめておく。人の思いは時の流れによって悲しい程に変わっていく。この感情の嵐も、いつかは止んで、また同じ事を繰り返すのだろう。故に、私は一時の自己否定の感情を意識的に保存する。私の未熟な自我の手綱を失う事に対する備忘だ)

