アタランタBC
正式名称:アタランタ・ベルガマスカ・カルチョ(Atalanta Bergamasca Calcio)
本拠地:ロンバルディア州ベルガモ
愛称:ネラッズーリ(Nerazzurri)、La dea(女神様)
カラー:黒、青
創設年:1907年
ホームスタジアム:ゲヴィス・スタジアム
ライバル:ブレシア・カルチョ
・1907年、5人の男達によるレストランでの会合がきっかけとなって創設された。
・ロベルト・ドナドーニ、ドメニコ・モルフェオら名選手を輩出。
・マルチェロ・リッピ、チェーザレ・プランデッリ、フランチェスコ・グイドリンら名監督も輩出。
・1962-63シーズンに唯一のタイトルとなるコッパ・イタリアを獲得。
・同じロンバルディア州に本拠地を置くブレシア・カルチョがライバルでありその試合はロンバルディア・ダービーと言われる。
創設からしばらくはセリエAとセリエBを行き来する所謂エレベータークラブであった。2セリエB時代の2005-06シーズンにステファノ・コラントゥオーノがセリエA監督に就任。セリエA昇格に導いた。翌2006-07シーズンでは8位の健闘で残留を決め、パレルモに引き抜かれた。
2007-08シーズンからはルイジ・デルネーリが監督を務めた。2008-09シーズン終了後にサンプドリアに引き抜かれた。
2009-10シーズンは開幕から苦戦。デルネーリの後任を解任しアントニオ・コンテを招聘したがチームを立て直せず辞任。コンテの後任もチームを立て直せず3シーズンでセリエBに降格した。
2010-11シーズン、コラントゥオーノを再招聘。結果2005-06シーズンのように1シーズンでのセリエA復帰を決めた。
2011-12シーズン、八百長疑惑で「勝ち点6剥奪」「クリスティアーノ・ドニに3年半出場停止」のペナルティを喰らう。ドニは当時38歳だったので実質現役引退処分であった。しかし難なく残留。
2012-13シーズン、八百長疑惑をぶり返され「勝ち点2剥奪」のペナルティを喰らう。ユース出身のジャコモ・ボナヴェントゥーラの活躍で残留。2013-14シーズンも残留した。
2014-15シーズン、クラブの顔になっていたボナヴェントゥーラが名門ミランに移籍。苦戦のシーズンとなり、2015年3月にコラントゥオーノを解任。後任はエドアルド・レヤ。
15-16シーズン、危なげなく残留。しかしレヤは1シーズンで辞任。
16-17シーズン、ジャン・ピエロ・ガスペリーニが監督に就任。そして伝説は始まる。
イタリアらしくはない3バック、中盤と攻撃陣が柔軟に変わる戦術を用いこれがバズる。そしてロベルト・ガリアルディーニ、マッティア・カルダラ、アンドレア・コンティといったユース出身者が活躍。望外の4位フィニッシュを決め20数年ぶりにEL権を獲得。
17-18シーズン、ELはGSを1位で突破もベスト32でボルシア・ドルトムントに敗北。リーグ戦は7位フィニッシュ。コッパは準決勝敗退。
18-19シーズン、コッパは準優勝となるが、リーグ戦は3位でとうとうCL権を獲得。
19-20シーズン、初のCLは開幕3連敗でGS敗退危機に陥るがその後復調し逆転2位でGS突破。ベスト16でバレンシアを2試合合計8-4でボコボコにして突破。準々決勝でパリ・サンジェルマン相手に終盤まで1-0でリードしていたがその終盤で2点返され敗退。リーグ戦は前シーズンと同じ3位。コッパはベスト16止まり。
20-21シーズン、18-19シーズンと同様、コッパ準優勝、リーグ戦は3位。特筆事項としてキャプテンにして10番のアレハンドロ・ゴメスがガスペリーニと対立し、フロント陣がガスペリーニに味方しゴメスはセビージャに追放された。
21-22シーズン、今までなんだかんだ主力流出は抑えられていた方ではあったがとうとうピエルルイジ・ゴッリーニとクリスティアン・ロメロが両方ともトッテナム・ホットスパーに引き抜かれる。冬にはロビン・ゴセンスがインテルへレンタル。そのせいもあってか直近3シーズンのような好調さが薄まりリーグ戦は8位で欧州行きを逃す。コッパは準々決勝で敗退。
22-23シーズン
今回はレモ・フロイラーが流出。このシーズンにセリエA復帰したモンツァのユース出身のマッテオ・ペッシーナが古巣に戻りたがり移籍。いまいちのアレクセイ・ミランチュクがトリノに移籍。冬にはルスラン・マリノフスキーがマルセイユが移籍した。
毎シーズンレンタルされていたカレブ・オコリとナディール・ゾルテア、マッテオ・ルッジェーリがレンタルされずに残留(ゾルテアは冬にレンタル)。アデモラ・ルックマン、エデルソン、ラスムス・ホイルンド、ブランドン・ソッピィを獲得。
リーグ戦5位でEL権獲得。コッパは準々決勝敗退。
監督
ネド・ソネッティ
昇格請負人と言われ数々のセリエBクラブをセリエAに昇格させた。アタランタもその一つ。84-85シーズンのセリエB昇格、85-86シーズンのセリエA昇格は彼の功績である。
エミリアーノ・モンドニコ
1987年から3年間指揮。
マルチェロ・リッピ
1992-93シーズンに指揮。直近2シーズンは2桁フィニッシュであったのが1桁フィニッシュとなる。1シーズン指揮しその後ナポリに移籍。
フランチェスコ・グイドリン
アタランタ指揮後に就任したヴィチェンツァでコッパ・イタリア優勝に導く
チェーザレ・プランデッリ
アタランタで現役引退しそのままユースのコーチを務めた。グイドリンの後任が決定するまで暫定でトップチームを指揮するなどした。
アンドレア・マンドルリーニ
現役時代所属したことがあり、所謂OB監督。
デリオ・ロッシ
04-05シーズンの最下位に低迷している時期に途中就任。降格回避は出来なかったがチームに明るい雰囲気を齎したおかげか、シーズン終了後にラツィオに声をかけられる。
ステファノ・コラントゥオーノ
前述の通り降格した05-06シーズンから指揮。1シーズンでの昇格を決め、06-07シーズンのセリエA残留にも貢献。
ルイジ・デルネーリ
07-08シーズンから2シーズン指揮しセリエA残留に貢献。
アンジェロ・グレグッチ
09-10シーズンから指揮。しかしデルネーリからの格落ち感も否めず、懐疑的な声は絶えず、その不安は的中してしまい成績不振ですぐ解任。
アントニオ・コンテ
バーリをセリエA昇格に導いた青年監督(当時)。しかし既に確固とした己の監督像は形成されておりそれもあってキャプテンのドニら選手と衝突。しばらくして自身から辞任を申し入れた。
ステファノ・コラントゥオーノ
セリエB所属となった10-11シーズンより再就任。05-06シーズンと同様の強さを見せ、1位で1シーズンでセリエA昇格を決める。その後3シーズン残留させるも4シーズン目の14-15シーズンは低迷し、解任された。
エドアルド・レヤ
15-16シーズンから1シーズンのみ指揮。
ジャン・ピエロ・ガスペリーニ
16-17シーズンから指揮。攻撃的な戦術を用いて3シーズンCL権を獲得したり、2シーズンコッパファイナリストに導く等し、アタランタをセリエAの強豪の1クラブに押し上げる
選手
ロベルト・ドナドーニ
ミランで一時代を築いた選手の一人。アタランタのユース出身者である。
フィリッポ・インザーギ
1996-97シーズンに加入し、リーグ得点王を獲得。その功績をもってイタリア最強のユヴェントスに加入した。
二コラ・ヴェントラ
2005-06シーズンに15ゴールを決めてセリエA昇格に貢献。
セルジオ・フロッカリ
2007-08シーズンにチーム2位の8ゴール、2008-09シーズンに12ゴールでチーム得点王になり、セリエA残留に貢献。
クリスティアーノ・ドニ
1998-99シーズンに加入。3シーズンで2桁ゴールを記録し飛躍を遂げる。2003年にサンプドリアに移籍するが、セビージャを経て2006年に復帰しキャプテンとしてチームを引っ張るが選手生活晩年はコンテとの対立の急先鋒に立ってしまうなど問題を起こす。挙句八百長に関わったとして2011年に3年半出場停止処分を喰らい、当時38歳であったため実質現役引退となった。
ジャンパオロ・ベッリーニ
1997年にアタランタのユースに加入し、ドニ引退後はキャプテンを務めたアタランタ一筋のバンディエラ。
ジャコモ・ボナヴェントゥーラ
ユース出身者。2シーズンレンタルを経験するが復帰した2010-11シーズンに活躍し1シーズンでのセリエA昇格に大いに貢献。昇格した2011-12シーズンからは背番号10を背負った。2014-15シーズンにミランへ移籍
アレハンドロ・ゴメス
別名「パプ・ゴメス」。2014-15シーズンに加入。ボナヴェントゥーラの後釜と見込まれ背番号10番を与えられた。17-18シーズンよりキャプテンを務め、19-20シーズンには個人賞を受賞するなどしていたが、20-21シーズン途中からガスペリーニとの対立が表面化し、冬にセビージャへと追放されてしまった。
マッテオ・ペッシーナ
pornhub。
EURO2020で負傷により出場辞退となったステファノ・センシの代理で招集。ウェールズ戦でゴールを決める。
22-23シーズンにユース時代を過ごしたモンツァがセリエAに昇格したことで、移籍を志望しレンタル移籍した。