日本人は国に対しても、平和に対しても、驕(おご)っていると言えるでしょう。

 たとえば、「水」という存在は、日本人にとっては、かなり簡単に手に入る存在です。

 そのために私たち日本人は、「水なんて当たり前のもの」と考えて、水に対して驕(おご)ってしまい、水を無駄に浪費してしまうこともあるかもしれません。

 しかし水の無い厳しい砂漠に行くと、そんな私たちでも水の有難さが分かり、水を大切に扱うものです。

 しかし平和は、失ってからその大切さに気づくのでは遅すぎるのです。

 国が消滅してから国を愛するのでは、遅すぎるのです。

 ダライ・ラマのように中国にチベットが滅ぼされ、インドに亡命してから、祖国の自由を願うのでは、それではあまりにも、あまりにも遅すぎるのです。

 失ってから大切さに気づく、その哀れな心こそ、驕(おご)りの心の象徴と言えるのでしょう。

 私たち日本国民が、もしも日本という国を、本気で大切に思うのであるならば、そして自分が生まれた国の文化や伝統を愛しているのならば、失う前に今すぐ行動に起こすべきなのです。

 かつての幕末の頃、当時の侍たちは自分の面子とか、自分の藩の体裁とか、幕府の存続とか、そんなことばかり考えて、日本そのものの未来を真剣に考える者は、ごく一部にしかいませんでした。

 そうした中で勝海舟という人は、こう言っていたそうです。

「自分の保身とか、藩の体裁とか、幕府の存続とか、そんな小さいことばかり言っていたら、この日本が外国に飲み込まれて無くなっちまうんだよ」

 これと同様に、私たち日本人が国や平和に対する大切さを忘れて、これらに驕り高ぶり、そして芸能だ、スポーツだ、ファッションだ、グルメだと、そんな小さなことばかりに気を掛けていたら、この日本は本当に中国の侵略によって消えて無くなってしまうのです。

 「国が自分に何をしてくれるのかを考えるのではなく、自分が国のために何ができるのかを考えて欲しい」、そう言ったのはケネディ元大統領ですが、私たち日本国民は、今こそ「自分が日本やアジアやアフリカといった世界の平和のために、果たして何ができるか?」ということを、真剣に考えてみるべきなのかもしれません。

 自分の人生を大切に想うのであるならば、自分が愛する人々を大切に想うのであるならば、あるいは同時代に生きる人々、もしくはこれから生まれてくる子どもたち、さらにはこの国を築いてきてくださった先人たちを大切に想うのであるならば、そしてこの日本という国の文化や伝統や歴史を大切に想うのであるならば、それのみならず、チベット、ウイグル、中国、朝鮮半島、東アジア、東南アジア、オセアニア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、こうした全ての地域の平和を願うのであるならば、「自分には一体何ができるだろうか?」と、今こそ私たちは自問自答してみるべきなのかもしれましれません。

 マルティン・ルターという方は、こんな言葉を言っていました。

「たとえ明日、人類が破滅しようとも、私は今日、リンゴの木を植える」

 つまりどんな困難があろうとも、決して希望を失わずに、一人一人が自分にできることを行っていこうと、そのように努力することが何よりも大切であると、そうルターは言いたかったのではないでしょうか。