【後編】柳澤義治さん
前編、中編では、銀行の為替ディーラー経験の一端をお話しましたが、最終回では、為替取引で利益を上げるための「私なり」のコツを3つにまとめてみました。
どれだけ客観的にいられるか
相場は上がるか、下がるか、の二者択一です。ですから、プロであろうが、アマであろうが、相場を当てる可能性に大きな違いがあるとは思いません。違いがあるとすれば、経験の有無に関わらず、儲ける時は大きく、損したときは出来るだけ小さく抑えられるかどうか。相場を読み違えた時にどれだけ早く気付けるか、しかもそれを継続出来るかどうかという点ではないでしょうか。人間誰しも損はしたくないですから、相場が逆に行っても希望的観測を捨てきれず、その結果、ずるずると損が膨らんでしまうことになります。悪いポジションは早めに見切りをつけ、いいポジションは持ち続ける冷静さが必要です。
勝ちパターンを作れるか
勝ちパターンを作るとは、「このような相場展開になったらほぼ間違いなく儲けられる」という展開を見つけることです。歴史は繰り返す、といいます。歴史を作るのも相場を作るのも同じ人間ですから、必ずどこかに同じパターンが生まれてきます。自分の得意とするパターンを見つけ出して、ポジションを取っていくのです。この「繰り返し」があるが故に、チャート分析が有効になっているのです。
相場を自分で読めるか
相場を読む方法としては、ファンダメンタルズやテクニカルによる相場分析が一般的です。私はテクニカル分析だけで相場を読んできましたが、どちらが良い悪いと言うことではなく、それぞれ自分にあった方法で相場を読めばいいと思います。正しく相場を読んだ人が儲け、読めなかった人が損をするのがこの世界ですから。ただひとつ、人の意見を聞いて相場観を持つのは間違いだと思います。銀行のディーラーの中にも、頻繁に人の意見を聞きまわる人がいますが、これらの人たちは、謙虚に意見を聞くのではなく、自分の考えと同じ人を探して、安心しているのが大半でしょう。といっても一般の人が最初から自力で相場を読むことは、難しいかもしれません。セミナーに出席するのも一つの方法ですし、最近はやりの「FXもの」だけでなく、内外を問わず相場のいろはについて書かれた本がたくさん出版されているので、これらを読まれることをお勧めします。
最後に、客観性に関連しますが、損をしたポジションを取った理由を記録して、どうして読み違えたのかを分析することも大事なことです。歴史や相場だけでなく、間違いもしばしば繰り返しがちですから。
3回にわたり私の経験談を書かせていただきましたが、皆さんがご自分の取引スタイルを見つけ、いい結果を出すための参考にしていただければ幸いです。
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柳澤 義治 ステート・ストリート銀行東京支店 支店長 1981年3月 学習院大学経済学部卒業 |
【中編】柳澤義治さん
足かけ約8年の「修行」を終えて、一人でこの世界で生きて行こうと決意して転職した先は英系H銀行でした。
最近でこそEUR/JPY, GBP/JPY, AUD/JPYなど対円相場が建っていますが、以前銀行間取引では対ドルのレートが中心に取引されており、たとえばGBP/JPYのレートを出す場合にはGBP/USDとUSD/JPYの掛け算でした。H銀行が英国系であったため、当然英国ポンド担当ディーラーがいました。個人のお客様は気付かないことですが、銀行の為替ディーラーにとって英国ポンドは鬼門と言っていい通貨です。なぜならば、取引量が多いにもかかわらず、マーケット・メークする銀行が少ないため、リクイディティーが非常に低いからです。つまり小額の取引でも相場が大きく動くため、簡単に損してしまうのです。ですから、外銀ディーラーのように各自の収益によって評価が決まる場合には、誰も担当したがりません。結果的にババ抜きになり、私もそれを引いてしまったのでした。特に私の場合は、ポンド・クロス担当ということで、ドル以外の全通貨に対するポンド・レートを出さなければならず、しかも当時はユーロが導入される前でしたから、円、フランス・フラン、ドイツ・マルク、イタリア・リラをはじめ南アフリカ・ランド、スイス・フランといったありとあらゆる通貨を見なければなりませんでした。ただ、案ずるより生むが安し、実際にやってみるとディーラーにとってためになることがわかり、次第に面白く感じるようになりました。
なぜためになったのか。それは、ありとあらゆる通貨の動きを同時にフォローすることが出来るようになったからです。そのころ、ヨーロッパ通貨のほとんどはEMSと呼ばれたバンドの中に納まっていたものの、統一通貨導入前の思惑で多次元的に複雑な動きをしていましたので、目を放した隙に動いているということもしばしば起こりました。今のようにコンピューターがレートを生成してくれるわけではなく、これらを常にフォローして、エクセルを駆使して瞬時にレートを出すというのはとても大変なことであると同時に自分のためになったことは言うまでもありません。その後、仲間やお客様から信頼されるようになり、商売も増えるという好循環が生まれました。手前味噌になりますが、当時、アジアで3本の指に入るポンド・クロスのプロとして認められるようになりました。
現在勤めているステート・ストリート銀行は、年金基金、投資顧問会社、生・損保会社など、いわゆる機関投資家を対象に金融サービスを提供している世界大手の銀行です。これらの投資家との為替取引は、複数の通貨を同時にさばくことを意味します。転職したのはユーロ導入前でしたから10通貨以上のレートを一度に出すこともしばしばあり、このような時はポンド・クロスでの経験がどれだけ役に立ったかはご想像いただけるところかと思います。
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柳澤 義治 ステート・ストリート銀行東京支店 支店長 1981年3月 学習院大学経済学部卒業 |
【前編】柳澤義治さん
第二回目の当ブログのゲストはステート・ストリート銀行東京支店、支店長の柳澤義治氏です。
私と柳澤さんとの出会いは、私が多感なブローカー時代スポット円のセクションに配属されて柳澤さんの銀行を担当してからで、早30年近いお付き合いとなっております。
一昨年には福井で100人規模の為替セミナーの講師として来福されており、その時これからはかなりの円高局面が想定されるとおっしゃり現実にそのとおりとなったことは、記憶に新しいところです。
このコーナーのタイトルである「Once a dealer, Always a dealer」を意訳すると『一度やったら止められない』でしょうか。
私は5年前に管理職に移りましたが、それまで20年以上にわたって外資系銀行で為替ディーラーを勤めており、現在でも為替に深く関わった仕事をしています。その経験をもとに、現在FX取引をされている方々へ成功するためのヒントをお伝えできればと考え、エピソードを交えながらディーラー時代を振り返ってみたいと思います。
私が為替ディーラーになった1980年代初頭は、日経新聞ですら為替関係の記事が数行しか掲載されていない頃で、ましてや「為替ディーラー」などという職業があること自体、ほとんど知られていませんでした。「これからは専門職の時代かもしれない」と言う父の言葉にたまたま耳を傾け就職した先が、当時、大手都市銀行を含め東京市場で最大のポジションを持っていた米系B銀行だったことは、単に偶然とは言え、その後の私の社会人人生を決定付けました。また当時のB銀行のチーフ・ディーラーのX氏と次の転職先の独系F銀行のチーフ・ディーラーY氏、この二人との出会いがなければ、これまで為替の世界で働き続けることは出来なかったでしょう。
両氏は、現在に至るまでの日本人為替ディーラー中では双璧と言える存在です。書籍やマスコミ等でも登場されているのでご存知の方も多いと思いますが、両氏がバリバリの現役で活躍していた時代にお二人に仕えたのは、東京市場広しといえども私だけのはずです。
為替ディーラーは狩猟民族的な要素の強い職業で、農耕民族である日本人には向かないとよく言われます。しかしX氏は突然変異なのか、弱冠30歳ですでに確固たる地位を築いていました。対照的にY氏は、典型的農耕民族的な方でしたが、日中のディーリングで右に出るものはいないと言われていました。両者は類まれな精神力と動物的感覚で狩猟でも成功したと言えるでしょう。
スタイルは違えども、チーム運営をする上で両氏に共通していたのは、「超」がつく徒弟制度で、必然的に体育会系の上下関係が存在していました。それまで文科系サークルの経験しかない私が、カルチャー・ショックで登校(行)拒否状態になったことは当然の結果だったかもしれません。毎朝5時に起き、真夜中まで相場を追いかけたり、徹夜でディーリングをしたり、夜中の電話で叩き起こされたりなどの繰り返し、この 「修行」時代は、語るも涙、語らぬも涙の毎日でした。
その間、1985年のプラザ合意後の大相場を経て、日本経済がバブル期に入っていくにつれ、市場規模・参加者も大幅に拡大し、ディーラー職も認知され花形職業になっていきました。
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柳澤 義治 ステート・ストリート銀行東京支店 支店長 1981年3月 学習院大学経済学部卒業 |

