古事記 日本書紀  風土記 などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記されています。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫
はりまのいなびのおおいらつめとされ、幼名に小碓おうす命、倭男具那やまとおぐな王がある。年少にして勇武人にすぐれ、諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが、長途の征旅、漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されています。

ヤマトタケル物語の大要
『古事記』と『日本書紀』とでは叙述に相違があり、文学として後者は前者にはるかに及ばない。以下『古事記』にもとづいて物語を要約する。小碓命(ヤマトタケル)の兄の大碓おおうす命は父天皇の召し上げた乙女を盗み、ために朝夕の食事に参会しなかった。そのことを教えさとせと父から命じられたオウスは、兄が朝のかわやに入るところを捕らえ手足をひき裂いてこもに包んで投げ捨ててしまう。その勇猛に恐れをいだいた天皇は、オウスを西方の賊平定に派遣する。これがこの皇子の征旅と漂泊の生涯の発端であります。  

景行天皇の息子・小碓命(おうすのみこと)は、とても気性が荒い少年でした。それを恐れた天皇は彼を遠ざけようと、西国に行って熊曾建(くまそたける)兄弟を討つよう命じます。まだ幼い小碓命は、わずかの兵をつれて西へと旅立ちます。

熊曾建兄弟の館は、多くの兵士によってかたく守られていました。そこで小碓命は、たばねていた長い髪をたらし、叔母からもらった衣装を身にまとって少女になりすますと、宴の時を見はからって館へ。美しい少女の姿にすっかり浮かれた兄弟のすきをついて、小碓命は一気に兄を刺し殺し、続いて逃げる弟を追い詰めます。弟は「西方に敵なしのわれら兄弟をしのぐ強者が、大倭(おおやまと)の国にはいたようだ」と武勇をたたえ、「倭建命」の名をさずけました。

みごと西方征伐を果たした倭建命でしたが、天皇はその労をねぎらうことなく、さらに東方への遠征を命じます。「父は、わたしに『早く死ね』とお思いなのだろうか? 西方征伐より帰って間もない私に、今また、兵卒も与えられず東方へ行けとおっしゃる。父は、わたしの死を願っておられるのか…」倭建命は涙にくれ、叔母に打ち明けるのです。

東国遠征は、苦難の連続でした。相武国(さがむのくに=神奈川県)では、野原の中で国造(地方官)の火攻めにあいます。また、走水の海(浦賀水道)では、海峡の神が荒波を起こして行く手をはばみました。この時、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は「倭建命さま、どうか立派に役目を果たし、大倭の地にお帰りくださいませ」と言い残し、みずから海に入って荒波をしずめます。

その後、東国の勇敢な神や人々を下した倭建命ですが、都へ帰る途中、伊吹山の神を討ちに行き、逆に大氷雨を浴びせられます。倭建命は瀕死の体で都を目指しますが、ついに能煩野(のぼの=三重県)で力尽きました。

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるわし」
──倭は、国の中でもっともすばらしい場所だ。青々とした垣根のように重なりあった山々が取り囲む、うるわしき我がふるさとよ。

胸にあるのは、望郷の想いか、父への無念か。その最期に数首の歌をよみ終えた倭建命は、能煩野の地で短い命を終えました。哀しき勇者の魂は、大きな白い鳥となって空を駆け上がり、西方へ飛び立ったといいます。

 


 ①お母さんは播磨稲日大郎姫   播磨 蘆屋道満血縁者

 ②双子の兄を殺す 

 ③親の愛に飢えている 親のいいなり

 ④叔母からもらった衣装 女物の着物 宿儺の着物

 ⑤刺し殺す 斬撃術式

 ⑥火攻め 炎の術式

 ⑦白い鳥 懐玉 玉折編の op ed

 ⑧領域展開は見た目的に牛頭天王なんですが牛頭天王はスサノオです

 ⑨スサノオはヤマトタケルと同じ剣

 天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ)を使っている

 親の愛に飢えているのも同じ

 まるで、転生者のように