服が好きで、普段から自分が着るもの、履くもの、にはよく気を付ける。
納得したものを身に着けたいと思っている。時にそれが自分の給料と見合わないものであっても。
少しだけ良くて。少しだけ長持ちするものを。
そして、旅行やら日々の生活やらの思い出を服やバッグや靴やらに染み込ませていくイメージがある。
使っていく過程で、誰かが作った誰のものでもなかったものを、確実に、一日ずつ、自分のものに。
あるいは、デザイナーが苦労して作ってくれた物を、自分の感性に慣らしていく。
その感覚が好きで、僕はいい服を買う。
普段から使うものは、よく考えたものを。
ところで、この言葉っていうのは、言葉そのものにも当てはまる。
僕は、気をつけすぎるほど、言葉には気を付ける。
多少回りくどくなっても、自分の考えを間違いなく伝えたい。そう思う。一ミリもずれることなく伝えたいと。
言葉っていうのは、普段から(というか人間が人間とコミュニケーションをする限り常日頃)使う。
自分の言葉はよく考えなければならない。普段から使うものは、よく考えたほうが良い。
「言葉はナイフである」。
取り間違えられかねない言葉を使うことは、信頼を損ねることになりかねない。誰かを傷つけてしまうことになりかねない。
あるいは、それまで苦労して作ってきた信頼や信用が、言葉の間違いでパタパタとドミノのように総崩れしてしまうかもしれない。
最近、言葉についての研究で面白いものを読んだ。
脳の記憶は、言葉にすることで間違った記憶に書き換えられてしまうことがある。
警察の「犯人の顔を覚えていますか」という質問で、「特に鼻が高かったのか覚えていないなあ」「ただ犯人の顔は覚えているんだがなあ」という時でも、「鼻は高かったですか。低かったですか。」と聞かれた場合、質問された人は勝手に脳が高かったか低かったかの二択に合うようにイメージを形作りだしてしまうそうだ。
言葉に合うように、脳は持っているイメージを書き換えてしまう。
言葉にしてしまうことで、脳に保管してある確実な記憶を崩してしまう。
ということらしい。
「眉毛は太かったでですか。」と聞かれ、「太かったです」と言葉にしてしまうと、脳内にある太くも細くもない眉毛は太いものに書き換えられてしまう。
言霊というもの(概念)があるが、これもその一種なように感じる。
「僕はできる」と口に出せば、脳内のできないイメージは払しょくされて、できるイメージに変わる。
これは、いい使い方。
しかし、犯人の聞き取り調査とかでは、マイナス。冤罪を作り出してしまうことになるだろうな。と思う。
誰かの人生を総崩れにさせてしまうことになりかねない。
と、研究に書いてあった(はず)。
人間の脳というのは、記憶を全て保管できない。保存できない。
アブストラクト(抽象、要旨)的な記憶に変換するというのは、A.ケストラーが著書(機械の中の幽霊)の中で言っている。
記憶を口にするとき、人は間違えるのだと思う。
抽象を具体にするための媒体が脳である場合、その変換は間違ったものになりやすい。
要旨から詳しい中身を取り出す媒体が脳である場合、その取捨選択は間違ったものになりやすい。
これは、普段から心に留めていていいことだと思う。
言葉と脳の関係。
口にする言葉はよく考えたものを。
そして、口にするまでのプロセスを少しわかっておくといい(かもしれない)。
自分のために、そして、相手の言葉のミスを許せる寛大な心を持つために。
