ですますからの手紙

ですますからの手紙

書簡体でのブログです。写真は基本載せていません。
2015年4月から社会人になりました。
大変申し訳ありませんが、平日の更新は少なくなりそうです。

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 服が好きで、普段から自分が着るもの、履くもの、にはよく気を付ける。

納得したものを身に着けたいと思っている。時にそれが自分の給料と見合わないものであっても。

少しだけ良くて。少しだけ長持ちするものを。

そして、旅行やら日々の生活やらの思い出を服やバッグや靴やらに染み込ませていくイメージがある。

使っていく過程で、誰かが作った誰のものでもなかったものを、確実に、一日ずつ、自分のものに。

あるいは、デザイナーが苦労して作ってくれた物を、自分の感性に慣らしていく。

その感覚が好きで、僕はいい服を買う。


 普段から使うものは、よく考えたものを。


 ところで、この言葉っていうのは、言葉そのものにも当てはまる。

僕は、気をつけすぎるほど、言葉には気を付ける。

多少回りくどくなっても、自分の考えを間違いなく伝えたい。そう思う。一ミリもずれることなく伝えたいと。

 言葉っていうのは、普段から(というか人間が人間とコミュニケーションをする限り常日頃)使う。

自分の言葉はよく考えなければならない。普段から使うものは、よく考えたほうが良い。

「言葉はナイフである」。

取り間違えられかねない言葉を使うことは、信頼を損ねることになりかねない。誰かを傷つけてしまうことになりかねない。

あるいは、それまで苦労して作ってきた信頼や信用が、言葉の間違いでパタパタとドミノのように総崩れしてしまうかもしれない。


 最近、言葉についての研究で面白いものを読んだ。

 脳の記憶は、言葉にすることで間違った記憶に書き換えられてしまうことがある。

警察の「犯人の顔を覚えていますか」という質問で、「特に鼻が高かったのか覚えていないなあ」「ただ犯人の顔は覚えているんだがなあ」という時でも、「鼻は高かったですか。低かったですか。」と聞かれた場合、質問された人は勝手に脳が高かったか低かったかの二択に合うようにイメージを形作りだしてしまうそうだ。

 言葉に合うように、脳は持っているイメージを書き換えてしまう。

 言葉にしてしまうことで、脳に保管してある確実な記憶を崩してしまう。

ということらしい。

「眉毛は太かったでですか。」と聞かれ、「太かったです」と言葉にしてしまうと、脳内にある太くも細くもない眉毛は太いものに書き換えられてしまう。


 言霊というもの(概念)があるが、これもその一種なように感じる。

「僕はできる」と口に出せば、脳内のできないイメージは払しょくされて、できるイメージに変わる。

これは、いい使い方。

しかし、犯人の聞き取り調査とかでは、マイナス。冤罪を作り出してしまうことになるだろうな。と思う。

誰かの人生を総崩れにさせてしまうことになりかねない。

と、研究に書いてあった(はず)。


 人間の脳というのは、記憶を全て保管できない。保存できない。

アブストラクト(抽象、要旨)的な記憶に変換するというのは、A.ケストラーが著書(機械の中の幽霊)の中で言っている。

記憶を口にするとき、人は間違えるのだと思う。

抽象を具体にするための媒体が脳である場合、その変換は間違ったものになりやすい。

要旨から詳しい中身を取り出す媒体が脳である場合、その取捨選択は間違ったものになりやすい。

これは、普段から心に留めていていいことだと思う。

言葉と脳の関係。

口にする言葉はよく考えたものを。

そして、口にするまでのプロセスを少しわかっておくといい(かもしれない)。




自分のために、そして、相手の言葉のミスを許せる寛大な心を持つために。









 

 いやー。書いたり書かなかったりでなんだかんだ3か月。

最初は、大学から地元に戻るってことで、友達に近況報告みたいなことをブログって形でできればいいな程度だった。そして、当時森見登美彦が好きだったからっていう理由で書簡体で、物書きの練習ができればいいや程度だったんだけど、ちょっと最近書簡体というものが自分の中でぼやけてきている気がする。

 新しく書簡体の本を読み、自分の中にもう一回書簡体とは何か、その意味はなんなのかを考えないといけない。

そして、6月18日に書いたようなことを書くときは、書簡体である意味がないのではないか。

と思ってきた(その時だけ書簡体止めればいいんだけれど)。

 自分が何を書きたいのかってのは、考えないと。

 自分が何で書きたいのかってのも、考えないと。


 もっともっと読む人が面白いと思うものを書きたいし、読む人が次が読みたいと思うものを書きたい。


 木曜日だ。

明日、仕事に行けば、土日で休みである。

頑張ろう。



 4月に入社した新入社員が3か月でやめるという。

3か月である。

正直、僕も辞めたい。辞めてのんびり旅行でもできたら・・・と思うことばかりである。

でも、辞めない。

ここで、辞めても前には進めない。

僕は、前に進みたい。前に。


 僕は、極力、人に頑張れとは、言わない。

いや、まあ、相槌的な使い方はするのだけれど。

頑張ろうとは言うのだけれど。

同い年には、友人には、死ぬほど頑張っている人がいる。

休めばいいのだ。頑張らなくていいのだ。

大体日本の社会は少しおかしい。

慣れるまで、とても時間がかかる。

しかし、僕たちの体は、心は、その慣れるのにかかる時間に耐用できるようにできていないのだと思う。




 あるいは、日本人らしさが、若者を殺すのかもしれない。風習だったり、国民性だったり。

ちょっと悪癖を見直す時期なのかもしれない。

「新人は苦労するべきだ」とか「上司より早く帰ってはいけない」とか。

いろいろあるけれど、「頑張ることが美徳」っていうのは、少しおかしいのではないだろうかね。


 仕事なんて人生を楽しむ金が稼げればいいんだ。

「命を削って働くなんて馬鹿らしい」と僕は、思うよ。

「泣きながら、仕事するなんて馬鹿らしい」と思うよ。

週に3日休みをくれよ。



 それから、我慢しろって言ったって人間だから限界があるし、自分の限界は自分がよくわかってるんだから、新人が辛そうにしてたら、上司は、「休んでいいよ」って言うべきなんだ。

新入社員を育てるのも、会社の、上司の仕事だと思う。

3か月で辞める人が増えてるってのは、人材を育てる能力のある人が減ってるってことじゃないかな。

ニュースで「3か月で若者が辞めてる!大変だ!」って聞いても、「弱い若者が増えているんだ」なんて考えはナンセンス。

一瞬でもいいから、自分はどうだろうかって「きちんと育てているだろうか」「アンテナをはれているだろうか」って指導する立場にあるひとは、考えてほしいものだね。



ちなみに、僕は今の指導係や上司に何も不満や不安はないし、順調。

しかし、まあ、時々右足がじんわり熱を持つ。自律神経失調症ぎみである。

しっかり休もう。そういう社会をつくっていこう。