6月22日仙台市内に入りました。
今回は会派の先輩二人と共に2泊3日での視察です。
3月下旬の福島への炊き出しに続いて2回目の訪問になりますが、今回は沿岸部を中心に北上し、震災当時の行政の対応や、復興の状況などの視察が目的となりました。
仙台地区は、みんなの党宮城県支部長の菊地文博さんに地元の仙台市内と沿岸部を案内して頂きました。
写真は荒浜地区。
一見すると広大な更地を撮影したのかと錯覚されるかも知れませんが、この地区は全てが津波に飲み込まれてしまったとの事で、この写真も震災前は住宅が立ち並ぶ地区だったようです。
菊地支部長からたくさんのお話を聞かせていただきましたが、行政の危機管理に関して、とても興味深かったものがありました。
江戸川区内でも3月11日の震災直後は、防災無線で避難を呼びかけていました。とても聞き取りづらいとの声は多かったという課題は残りますが、上記地区では地震発生時に電源が落ちてしまい、防災無線は津波の危険性を伝える事すら出来なかったとの事です。
これでは意味がありません。
津波の大きさは想定外であったとしても、電源が落ちる可能性は予測できた範囲でしょう。緊急時のバックアップ電源は行政として必ず確保する必要があると感じました。
菊地支部長によると、宮城県の当面の課題は
①瓦礫の処理(1,600万t~2,000万t 震災前の30年分に相当)
②田畑の土壌改良(作付面積の約10%が耕作不能状態)
③下水処理(処理場そのものが被災していたり、沿岸部に多いため地盤沈下による水の逆流などにより震災前の20~30%の処理能力)
でした。政治判断も完璧とは言えず、また岩手県と宮城県では復興に対しての行政対応スピードには違いがあるとの事でした。広域行政を真剣に考えるにはとてもいい機会です。
写真は津波に耐え抜いた倉
余談になりますが、被災地を車で走っていると、木造家屋、鉄骨施設等はことごとく損壊していましたが、しっかりと立ち尽くす倉は目立ちました。
日本人としての誇りを感じ、一方で利便性と経済性を優先させてきた現代人の一人として、先人から大切なものを教わった気にもなりました・・・
写真は若林区にある浪分神社(また余談です)
たまたま通りかかった神社ですが、案内して頂いた菊地支部長から、神社にまつわる話を聞かせて頂きました。
調べてみると、神社の名前は慶長の三陸津波(1611年)の際、ここまで津波が押し寄せて波を二分した事に由来しているそうです。
「津波はここまで来るんだぞ!」という先人からのメッセージだったのでしょうか。
仙台市内から気仙沼を目指し東北道を北上します。
気仙沼到着。
まず気仙沼市役所を訪問します。江戸川区から応援に駆けつけている職員を励ます事が目的でした。市役所には関西や中部地区からも多くの職員が応援に駆けつけていました。
市役所の建物自体は少し高台にあり被災を免れた事は何よりでした。
報道の通り、仮設住宅は徐々に完成し始めていて入居が始まっているとの事です。
初めての訪問でしたが、テレビで見ているよりも被害を大きく感じました。建物自体の被害は報道でよく目にしますが、街全体を見渡してみて実際に体で感じることは現地へ行ってみなければ分からないものですね。
瓦礫も数箇所に集約して集められ、金属類と木材類などに分別されて積み上げられている状況です。
写真は港近くの状況、あちらこちらに巨大な水たまりが
現地に立ってみると、腐敗臭がきつかったです。現地の人の話では、引かなくなった水が、泥や瓦礫と一緒になって腐り始めているからだと言うことですが、今後の衛生環境の改善は急がれるべきですね。