ガンダムにおける「ニュータイプ」思想と、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」思想は同じ概念です。
どちらも、人は分かりあいたいという強烈なメッセージを感じます。
どちらかというと、ぼくの「シンクロ」はエヴァに近いかな。
他人同士が分かり合う、というのではなく、他者との強制的な合一。
もちろん、自分の肉体は保持したまま、ですが。
アニメを引き合いに出して申し訳ありません。
語彙の少ない自分にとって、思想を語る場合にはやはり、
もとある概念を使わせていただくのが効率的。

さて、「シンクロ」の、真の楽しさについてのお話でした。
平たく言えば、AV男優とシンクロするのです。
……。

引きましたか。
まあ、もう少し聞いてください。
いいですか、シンクロとは、共感の極致であると理解してもらって構いません。
しかしながら、シンクロ時に感じられる、いわゆる「共感覚」は、
過去に自分の体験した感覚のうちに限られます。
自分の感じだことのない感覚を感じることなど、そもそも不可能ゆえ。

しかし無論、その時分は女性の肌に触れることなど、とてもとても。
ただ射精の快感を知るに過ぎなかったのです。
おっぱいを触ったり、くちびるを吸ったり、勃起した男根を突きこんでかき回し、
征服感のうちに射精するという感覚を得ることは、不可能なはずなのです。

しかし、感覚を止揚することはできるはず。
そしてそのとき、我々が利用しするのが、「集合的無意識」。
いわゆる生物としての本能、というやつです。
恐らく男という人種は、性交渉の可能な、ある程度成熟した女性体が目前に、
性交渉可能な体勢であった場合、何も学ぶことなく、性交渉に及ぶことが可能であるのです。
こぶしを固めて殴るが如く、腹が減れば喰らうが如く。
また、各種の宗教が蛇に対して根源的諸悪を見出すのは、原書の記憶が、
捕食者であるところの蛇を恐れるように、まさにDNAの奥深くにまで刻み込んだ名残であるのです。
つまり。
我々は生まれながらに、性の感覚を持ちあわせているのです。




原初の記憶に頼っていては、人は、我々は獣と変わらない。
そしてシンクロという行為に目覚めた者としては、そこで満足していては凡百の人間とおなじである。
そう、我々シンクロに目覚めた者は、シンクロ感をより補強するために、
日々の体験を積み重ねていくことができるのである。

実際のセックスが、シンクロ時の体験と、たいした差がなかったことに気づいたとき、
我々はさらに上のステージに行くことができると、私は悟った。
すべての欲望は、それが可能である限り、
つまり、その行為者が過去から未来のどの時間のうちにか、存在した(する)と想像される場合、
体験することは可能であると。

続く!
次回は裁判記録を使ったシンクロについての考察です。