masterik - 新しい朝が来た!(仮) -12ページ目

masterik - 新しい朝が来た!(仮)

ブログの再会。

と、いうか再出発。

タイトルはまだ考えついてないから、思いつき?!



ロボット三原則

* 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

* 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

* 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。


危害、危険、自己の概念の定義によって、この原則をすり抜けることができる。
命題はロボットが原則を守りながら人間に危害を与えるかどうか。

・第1条で最初に『危害は与えてはならない』と命令がある。次に『その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。』と命令。
・第2条で『与えられた命令に服従しなければならない。』

つまり、最優先の命令は『危害は与えてはならない』と『その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。』である。
危害とはある主体に対して客体が主体の存在を脅かすもの。そして、危害を与えるとはある主体に対して客体が存在を脅かす行為のこと。
だが、存在を脅かすことはロボットにとってどういうことなのか。自分とは他者とは何だ?誰だ?そもそも人間とは何だ?

食べる?
話す?
結婚する?
複雑な道具をつくる?
二足歩行する?
許す?
起こる?

いや、そんな単純に決められるものでもない。

人間て何だ?

人間の定義がプログラムできるのだろうかというところからだ。
人間とそうでないものと区別ができなければ、人間とそうでないものとを混在して認識することになり混乱する。

また、そもそも何故『人間』に危害を与えてはいけないのか。そのほかのものでもない人間を最優先する理由はなんだろうか。
それはロボットを作り出した創造主が人間だからだ。
だから、ロボットは人間に従うものとしての前提がつく。

では、人間の創造主の神をニーチェは何故殺せたのか?
神は人間の作り出したもので人間が神の作り出したものではなかった。
そういうことだろうか。

ロボットは自分のすることに対するプログラムは施されているから、そのプログラムの内容に従った命令だけは実行できる。
しかし、プログラムに書かれていないことを実行することができないから、危害を与えるためには危害のの定義ができているはず。
そして、人間に危害を与えることをしてはならないとあるので、人間に危害を与えることを実行しない。

また、自己とはなんだろうか。ロボットは同じ規格で作られていたとしてもシリアル値を刻印されて、その識別によって個体が認識される。
それだけで自己を確認できるのか。
個体が識別できるというのは観察対象があってそれは自己以外のもので自己と同じ種類であるということを認識できることであるが、種類が同じであるということを観察できるというのが先にできなければいけない。
いったい、自己とはなんだろうか。

くそ、何だこの難しさは。
ロボットってこんなに難しいものだったのか?

でも、それを平然と当たり前のことでやっている人間ってどうして生まれてきたのだろう。
ますます不思議だ。

まあ、とりあえず本題に戻りまして、自己も危害も危険も人間と同じ感覚で扱うとして、つまり第1条~3条までを包括することでクリアをすればいいのだな。

もう一度、
・危害を加えてはならない。
・人間の危険を看過してはならない。
・人間に危害を及ぼしてはならない。
・命令に服従しなければならない。
・自己を守らなければならない。

つまり、人間を守れという命令をされたときに危害を加えず、危険から保護し、自己保存をはかるということでいいのかな。
では、それはどういうことときだろうか。

一つには救助活動は当てはまるだろうな。救助しろと命令され、同時に危険を除外をして、人間を保護して、自分の存在も保護する。
ほかは自己増殖を図るのも手だな。自分のテリトリーを守るために個体数を増やすが、人間の行動に直接的に関与するわけでないから、危害を及ぼすわけでもない。しかし、あまりにも増殖しすぎることで人間の存在領域を侵す。これを人間にとっての危険としたら、人間はロボットが自己破壊するのを命令するのか。命令したとして、自己の破壊はできるのだろうか。
うーん、また迷宮だ。

ロボットとは何だろうな。
子供のころって、お店にいくことが人生の中の楽しみの一つだった気がする。

高速自動車動を出て東西に直行するアクセス道路を東に進むと高速道路の東側を平行する広域農業用道路という名の一般広域道路が交わる東南のコーナーに立地するDIY店。
19:00頃に買い物に行ってきた。

当該店舗は駐車台数150台くらい駐車することができるが、来店したときは10数台止まっていた。閉店は平日通常営業20:00。
今日ちょっと必要なものがあって店の中に飛び込んだのだが何か様子が違う。

園芸資材と土木資材が入り口付近にあって、一方のはメインレジが並び、もう一方はサブレジがある感じ。
メインレジがある入り口から入って真ん前の商品棚は食器や化粧品、洗剤など日曜雑貨。左手奥は文房具などのオフィス用品とさらに奥は大きなガラス張りの陽の光がたくさん降り注ぐように設計された植物スペース。取って返し、右のほうは作業衣やペット用品などの雑貨。これがレジと平行に20棚くらいあって、さらに奥に同じように棚が並んでいる。
奥の棚は比較的に高額な電化製品や家具、工具などの日曜大工の素材。
要は食料品以外に生活に必要なものが全てある感じ。
とりわけ之が欲しいってものが置いていないのが残念なだけ。
とにかく、なんか困ればないものがなく、商品点数も何万点にも及ぶのだろう。

これだけの品揃えならば、何がしかを買いに来る人が多いはずなのだ。
しかし、平日とはいえ閉店まであと1時間の帰宅時間。
それにしても少ないのである。

そして、寂しいのである。

その原因はどこにあるのかいなと、物足りなさを探っていたら、店員が少ないのである。
以前にきたときはもっといたはずなんだけど、この広大な店舗の中で目にする店員さんはレジ打ちの女の子だけ。
今日は都合が悪くシフトを偶然みんな休んだのかなという雰囲気でもなく、レジの途中で商品棚にない商品も客から頼まれればレジの子が取りにいくことが当然のようだ。

ほかの店員はいるにはいるのだけど、店内半分まわって見かけたのは3人だったかな。
店員がいないだけで、こんなに店の雰囲気が変わるのかと思いながら、一方で人件費の削減かなと感じたりもして。
でも、なんか不気味だったよ。

こんなに広いスペースにこんなにたくさんの商品が並んでいるのに店員さんがおらず、誰かの足音が聞こえるくらいに静けさが漂う。
夜空は星が満杯のいい天気。
何も邪魔するものがない。

ま、簡単に言えば不況だねの一言なんだけど、それにしても酷すぎる。
デフレの時代だから現金が一番。
レジを通らないことが何にまして大事なことなんだけど、レジを通らないことには何も動かないなくなってしまう。

でも、それじゃ世の中明るくなんかならないから、社会のために自分を投げ出しましょってことにいかない。
じゃ、そういうあんたが買い物いっぱいすればいいじゃんてことでもない。

何もいらないって声が商品にあきたんじゃなくて、必要なものがないのでもなくて、ちょっと我慢すれば時間だけが通り過ぎてくれる。
本当はもっと欲しいのだけど、その先に肥溜めには長い間ずっと溜めてきた僕らのうん○がある。

だから、怖い恐い。

そんな感じだ。
 さざめく木々のささやきが森の声を届ける。颯爽とした青空の後にざわつく風が鈍重な雨雲を引き連れてくる。そのサインは屋根の下へと僕を誘う。雨雲が過ぎ去った後に雫に差した陽の光が七色のきらめきをプレゼントしてくれる。
 鈴なりの毬栗が風の篩にかけられて実りを秋を足元に届けてくれる。しゃがんで手を伸ばした先には滑々とした肌触りの硬い殻に覆われたきれいな栗肌の真ん中に小さな丸い通り道が開いている。そこは名も知らぬ幼虫の行き先を示す大事な足跡。
 過ぎ去りし雨風が置いていったのは、赤、黄、茶のグラデーション。ひらひら舞い散る楓の葉が木枯らしの訪問を報せてくれる。
 毎年繰り返される風景。けれど、一つ一つの生命のゆらめきはそれぞれの一回性の生を受け取っている。何度も何度も同じことに見えても、目を凝らせば、ひとつひとつが違う道を歩む。
 分かれた枝はそれぞれの方をそのまま進み、その後は決して交わらない。それどころか、また別々の分かれ道をつくる枝であったり、そのままのものある。太さも勢いもばらばら。でも、遠くからみればドングリだってわかる。
 
 生命とは何かという前エントリーより、もう少し考えてみた。
 
 一度として同じことのない現象そして戻ることない時間の中に生命があるように感じる。生きているということは自己複製と代謝を繰り返し、物質の交換を行い、エントロピーの増大による物質の崩壊前に、新たなエネルギー源の物質を取り込み、不要な物質排除する過程。
 
 自然と人間が呼ぶ営みは、生命が作り出している現象。その振る舞いの上に成り立つ人間の活動。そして、人間同士の集合から生じるネットワークの振る舞い起こす社会という形。
 個人と個人の意識の界面で生じる化学反応を出会いと別れと呼び、多くの個人が離合と集散を繰り返し社会が有機的に形作られる。また、それぞれの界面では様々な結び目が交わされ、ずっと同じ結びかたもあれば、引っ張ればすぐにほどけるもの、あるいはただ一本につながって切れないものもある。
 そのうちの経済と呼ばれる人間の行為。互酬と交換と再分配の組み合わせ。個人の[持っている]ものをそれぞれの行動の目的に従って行動する。持っている物は形のある物と形のない物がある。生きているものは、当たり前だけど生と死がある。経済も人間の活動によって引き起こされる現象である以上、生命活動の上に社会活動が成り立つ。
 しかし、固体の栄養素のほとんどの一つ一つは特定の固体の中にとどまることがないが、個人の経済活動の中で多くのものが出入りがある中でお金だけは一つの場所に留まり続け、減ることがない。しかも、増えれば増えるほど固着し続け代謝することがない。多くの電子化されたマネーは一枚一枚の区別もなく全てが同一のものとして扱われる。
 朽ちることがなく、排除されないもの。決して生命活動の中にはみられない現象。だが、生命活動の上に成り立つ社会活動、社会活動の上に成り立つ経済活動の中にあり、癌細胞のようにその切除は多大な犠牲が伴うもの。
 
 借金の掛け合いでそれぞれが膨らみ続けるシステムの未来。どこまで膨張するかわからない。その借金は同じ人間の左手と右手が交わって、その握り方がとても強い状態。両手をほどけば何も残らない。そう、話した両方の手に何もない状態になる。これが一種の幻想。
 
 そう思えばいいのだろうか。