カードゲームの多くはジョーカーにすべてのカードを代替する最強の役割を課す。
たとえば、ポーカーでは配られたカードのうち3枚が同じ数字あるとき、その3枚以外にジョーカーが入っていると、スリーカードという弱い役でおわってしまうところをフォーカードやフルハウスといった勝つために十分なだけの役をつくることになる。
もらった人はとてもゲームが楽になり、その後のゲームの展開を読めるようになり便利だ。また、ジョーカーがない場合は、その逆にとてもやりにくくなる。
ところが、どんなことにも例外がるように、そのカードがをつかまされるとどーにもならんことがある。
それがばば抜きである。
先にどんどんうまく切りぬけてカードを場にだしきってババがまわってこないうちにあがってしまうことが大切なのだが、これをいわゆる勝ち逃げということでゲームが行われる。
この話をしたのは今の若年層がおかれた状況がまさにそうだから。
輸出入における貿易不均衡から米国との摩擦のなかで、その是正措置として為替の調整とともに内需拡大を公約(当初360兆から最終的に640兆円に公共事業予算がふくらむ)。
その結果として、ぼくら公的投資を経済政策の主な柱とすることになった。
ところが、そのタイミングで一気に不況に突入してしまったので、公共事業によりいわば福祉的な意味もこめて、毎年税収で賄われない分をおぎなってきた。
つまり、ジョーカーが国債というわけだ。
このジョーカーがとても、便利でその気になれば何枚だって連発できるし、ちょっとだけっと言った説得に応じやすい。
すべて、プレイヤーにとっては悪いことじゃないので連発しまくる。
これがある時を境に役割が変わる。
すなわち、ただ子どもに税金を払わせられれば社会はなんとかなると言った楽観論であったが、子どもたちがその分を払うことが不可能であること気づいたときには、ジョーカーは社会にとって邪魔になる。
だれもが受取りたいとは思わなくなる。
それが今もしかたら訪れるかもしれないということだ。
まだ、ジョーカーが最強のカードだと認められているが、もうその役割がまったく逆になるタイミングがある。
ちょっとした、きっかけで。
で、ババをつかまされるのは子どもたち、孫である。
なんら自分で認めることができず過去の大人たちが勝手においていった汚物のようなもの。
それがババである。
あー、なんか、どーにかならんのかね。
このおかしな発想は。