師走のちょっと静かな日に、本校の数学科準備室で、
来るべき高校の新指導要領発表にむけて、
あらためて現カリキュラム・後期版の教科書の目次を、
パラパラと見ていた。ビックリした(@ ̄Д ̄@;)
ゆとり教育の徹底ということで、
「3割削減」という方針のもと実に多くの内容が
削減されていたはずだが、
後期版の教科書では、発展的内容として、
これまで教科書にあった内容以上のことが
盛り込まれている。たとえば、
三角形の面積の「ヘロンの公式」の、
四角形への拡張「ブラマグプタの公式」が掲載されている。
昨日の国際的数学・理科の学力調査TIMSSの発表を伝えるニュースでは、
「来年から、小中学校では『ゆとり教育』の方針は転換されます。」
と報道されていました。
文部科学省のチラシでは、「理念は変わりません」と書いてありますが、
事実上のゆとり教育の撤廃、体系的知識の指導という方針は、
世論も理解を示すことでしょう。
それでもビックリしたのは、この発展的な内容ではありません。
私たちが学んだ、
数学Ⅰ、基礎解析、代数・幾何、微分積分、確率・統計
シリーズの頃より内容が易しくなっていることです。
数学Ⅰ、数学Aの教科書は、なるほど、学び易い順に配列され、
しかも数学Aには、集合・命題・論証の節のあとに平面幾何が
掲載されています。ああ、平面幾何が必修になったのか、
と感慨深げに眺めました。
こういうのも、本校では、
数学Ⅰ・数学Aに盛り込まれている内容は本校独自の教材で、
教えているので、教科書が変わろうとも、普遍に教えてきました。
円に関する定理も、メネラウス・チェバの定理も、
中学生の幾何で教えています。
現カリが新カリだった頃見た教科書以来ですから、
あらためて19・20年度移行版の教科書を見ると、
ビックリした、というのが正直な感想です。
しかしながら、それ以前のカリキュラム「コア&オプション方式」
は大変評判が悪かったものの、当時、編纂に携わった大学の先生の話を
聞く機会がありました。その先生の悲願としては、
「高校生に平面幾何を教えたい。」
そして、
「数学Ⅰの最初にある、論証の基礎は、幾何をちゃんと教えてこそ、
意味がある。現代化の名残のように、頭ごなしに、
ああやって教えても、ほとんどの高校生は数学が嫌いになるだけだ。」
と言っていた。
私自身も、高校・数学Ⅰの教科書にあった、
「単射」とか「全射」とか、上への写像とか、
まったく意味がわからなかった。また使っていた教科書が、
○ャート式で有名な会社の、難しい版の方だったから、
なおさらたちが悪い。
「どうしてそうなるのか。」なんてことはさておいて、
「さあ、こうやって問題は解きますよ。」
の連続だったので、本当に数学の勉強には苦労した。
また、教科書傍用問題集が「クリアー」というやつで、
とにかく反復・反復し、計算力がついたが、
肝心の思考力はサッパリだった。
私が実習に行く頃には、サクシードに変わっていたので、
「そうだよな、こういう方が、できる子にはいいよな。」
と恨み節だった。
話は戻って、現代化の名残で、抽象的で頭ごなしで、
高校生の理解を無視した構成という印象だった高校数学の教科書も、
カラフルで、高校生の脳の成長・発達に沿った構成になっており、
「これなら、ゆとり教育のすべてが悪かったわけではないな。」
と思えていた。また、あの教授の悲願も、
20年近く経って、それが実現されていた。
「そうだよ、現代化カリキュラムと、
その後の問題可決優先型カリキュラム、急ぎすぎていた。
一次変換も微分方程式も、それはそれで学ぶと面白いが、
あれはやはり大学で、『へぇ、そうなんだ』と学ぶ内容。
日本型大学、つまり教育力が期待できない大学の先生方が、
カリキュラム編纂の際に盛り込んだ、過度な内容が、
大学で学ぶべき、線形代数や微分積分の威力・魅力を
そいでいるところがあったのだ。」
とあらためて思った。
小平邦彦氏著作の「幾何への誘い」では、
微分積分は大学で始めて学んだ、と書いてあった気がする。
旧体制の高校・大学制度であったから、現在と区分が違うと思うが、
高校生に微積分を教えて、難しい問題を解かせていると、
「こんなことは大学に入ってから学ぶことだよな。」
と、微積分の楽しさを知って教師を志望した私でさえ、思う。
それよりも高校生には、ユークリッド幾何と、
図形と方程式(解析幾何)を教えればいいかな、と思う。
文系諸君に教えていると、
やはりベクトルは異世界のものを見るような顔をしている。
「便利なんだよ~。」
と絶叫しても、彼らは楽しめない。出現が、「ありえない」らしい。
微積分がいらないというものの、
あの面積の公式で、判別式やら解と係数の関係等を使うと、
「ほえっ~」
という顔を生徒はする。あれは、やはり数学という教材の魅力だ。
「ほら、世の中、うまくできているんだよ。」
なんて、こちらの自然観・数学観を擦り込んだりする。
話は戻って。
少子化社会になって、
バブルが崩壊して、着実な積み上げこそ、最もな美徳という
世間的な風潮が出てきて初めて、
社会が生き急ぐことを強いることなくなった、と感じている。
勉強も同じ。
学び急ぐ事なかれ。
中学生・高校生の成長・発達に即したカリキュラム・教科書であるべき。
まだまだ、「国際競争力」の名の下に、
学び急ぐことを強いる人たちは多いが、
それももうすぐ、マイナーになるだろう。
あとは大学の教育力。
今日、届いた数学セミナーに、
「読者の進める数学の本」という企画があり、
そのなかに数点、「18世紀の数学」とサブタイトルがついた本があった。
そう、そうなんだよ。
現代でなく、近代の数学を学ぶ必要があるんだよ。
おそらく、ちょっと数学が得意で数学科に入った学生のほとんどが
面食らう、現代数学。先に登場した、うちの大学の先生は、
「6割が理解不能で全体の3割が留年。
大学の数学科は機能していない。」
とばっさり。そうだよ、俺も留年、退学しそうになったよ。
学び急ぐな、学生よ。学び急ぎを強いるな、教師よ('-^*)/
来るべき高校の新指導要領発表にむけて、
あらためて現カリキュラム・後期版の教科書の目次を、
パラパラと見ていた。ビックリした(@ ̄Д ̄@;)
ゆとり教育の徹底ということで、
「3割削減」という方針のもと実に多くの内容が
削減されていたはずだが、
後期版の教科書では、発展的内容として、
これまで教科書にあった内容以上のことが
盛り込まれている。たとえば、
三角形の面積の「ヘロンの公式」の、
四角形への拡張「ブラマグプタの公式」が掲載されている。
昨日の国際的数学・理科の学力調査TIMSSの発表を伝えるニュースでは、
「来年から、小中学校では『ゆとり教育』の方針は転換されます。」
と報道されていました。
文部科学省のチラシでは、「理念は変わりません」と書いてありますが、
事実上のゆとり教育の撤廃、体系的知識の指導という方針は、
世論も理解を示すことでしょう。
それでもビックリしたのは、この発展的な内容ではありません。
私たちが学んだ、
数学Ⅰ、基礎解析、代数・幾何、微分積分、確率・統計
シリーズの頃より内容が易しくなっていることです。
数学Ⅰ、数学Aの教科書は、なるほど、学び易い順に配列され、
しかも数学Aには、集合・命題・論証の節のあとに平面幾何が
掲載されています。ああ、平面幾何が必修になったのか、
と感慨深げに眺めました。
こういうのも、本校では、
数学Ⅰ・数学Aに盛り込まれている内容は本校独自の教材で、
教えているので、教科書が変わろうとも、普遍に教えてきました。
円に関する定理も、メネラウス・チェバの定理も、
中学生の幾何で教えています。
現カリが新カリだった頃見た教科書以来ですから、
あらためて19・20年度移行版の教科書を見ると、
ビックリした、というのが正直な感想です。
しかしながら、それ以前のカリキュラム「コア&オプション方式」
は大変評判が悪かったものの、当時、編纂に携わった大学の先生の話を
聞く機会がありました。その先生の悲願としては、
「高校生に平面幾何を教えたい。」
そして、
「数学Ⅰの最初にある、論証の基礎は、幾何をちゃんと教えてこそ、
意味がある。現代化の名残のように、頭ごなしに、
ああやって教えても、ほとんどの高校生は数学が嫌いになるだけだ。」
と言っていた。
私自身も、高校・数学Ⅰの教科書にあった、
「単射」とか「全射」とか、上への写像とか、
まったく意味がわからなかった。また使っていた教科書が、
○ャート式で有名な会社の、難しい版の方だったから、
なおさらたちが悪い。
「どうしてそうなるのか。」なんてことはさておいて、
「さあ、こうやって問題は解きますよ。」
の連続だったので、本当に数学の勉強には苦労した。
また、教科書傍用問題集が「クリアー」というやつで、
とにかく反復・反復し、計算力がついたが、
肝心の思考力はサッパリだった。
私が実習に行く頃には、サクシードに変わっていたので、
「そうだよな、こういう方が、できる子にはいいよな。」
と恨み節だった。
話は戻って、現代化の名残で、抽象的で頭ごなしで、
高校生の理解を無視した構成という印象だった高校数学の教科書も、
カラフルで、高校生の脳の成長・発達に沿った構成になっており、
「これなら、ゆとり教育のすべてが悪かったわけではないな。」
と思えていた。また、あの教授の悲願も、
20年近く経って、それが実現されていた。
「そうだよ、現代化カリキュラムと、
その後の問題可決優先型カリキュラム、急ぎすぎていた。
一次変換も微分方程式も、それはそれで学ぶと面白いが、
あれはやはり大学で、『へぇ、そうなんだ』と学ぶ内容。
日本型大学、つまり教育力が期待できない大学の先生方が、
カリキュラム編纂の際に盛り込んだ、過度な内容が、
大学で学ぶべき、線形代数や微分積分の威力・魅力を
そいでいるところがあったのだ。」
とあらためて思った。
小平邦彦氏著作の「幾何への誘い」では、
微分積分は大学で始めて学んだ、と書いてあった気がする。
旧体制の高校・大学制度であったから、現在と区分が違うと思うが、
高校生に微積分を教えて、難しい問題を解かせていると、
「こんなことは大学に入ってから学ぶことだよな。」
と、微積分の楽しさを知って教師を志望した私でさえ、思う。
それよりも高校生には、ユークリッド幾何と、
図形と方程式(解析幾何)を教えればいいかな、と思う。
文系諸君に教えていると、
やはりベクトルは異世界のものを見るような顔をしている。
「便利なんだよ~。」
と絶叫しても、彼らは楽しめない。出現が、「ありえない」らしい。
微積分がいらないというものの、
あの面積の公式で、判別式やら解と係数の関係等を使うと、
「ほえっ~」
という顔を生徒はする。あれは、やはり数学という教材の魅力だ。
「ほら、世の中、うまくできているんだよ。」
なんて、こちらの自然観・数学観を擦り込んだりする。
話は戻って。
少子化社会になって、
バブルが崩壊して、着実な積み上げこそ、最もな美徳という
世間的な風潮が出てきて初めて、
社会が生き急ぐことを強いることなくなった、と感じている。
勉強も同じ。
学び急ぐ事なかれ。
中学生・高校生の成長・発達に即したカリキュラム・教科書であるべき。
まだまだ、「国際競争力」の名の下に、
学び急ぐことを強いる人たちは多いが、
それももうすぐ、マイナーになるだろう。
あとは大学の教育力。
今日、届いた数学セミナーに、
「読者の進める数学の本」という企画があり、
そのなかに数点、「18世紀の数学」とサブタイトルがついた本があった。
そう、そうなんだよ。
現代でなく、近代の数学を学ぶ必要があるんだよ。
おそらく、ちょっと数学が得意で数学科に入った学生のほとんどが
面食らう、現代数学。先に登場した、うちの大学の先生は、
「6割が理解不能で全体の3割が留年。
大学の数学科は機能していない。」
とばっさり。そうだよ、俺も留年、退学しそうになったよ。
学び急ぐな、学生よ。学び急ぎを強いるな、教師よ('-^*)/