また景気後退局面らしい。
景気・不景気が直撃しない職場にいるので、
その風を感じることは少ないです。
ただ、ここ10年の経験から、
まったく不景気が関係ないということはない、
ということもわかってきました。
不景気となると、
私学の学校経営も緊張することは、
経営者の顔つきや言動から察せられる。
ただ、だからといって他で利益が向上できる仕事ではないので、
できることと言えば無駄なものを消費せぬこと。
また不景気は、保護者からも感じられます。
もう行事の残金や部活の遠征の残金は即刻、返す。
以前は、「合宿行くことに意味はあるのですか?」
と問われたこともある。1円も無駄にできない。
また、そう言った声が聞こえてくることも覚悟せねば。
そんな中、朝刊で大学の広告が目立つようになった。
こういった広告費も大変な額になるだろうが、
それでも全国から優秀な人材を集めたい。
それは少子化が懸念される昨今では、
私立学校として死活問題であることは理解できる。
田舎の高校生だった頃は、
その高校でけっこう成績が良かった方だったので、
「どうしてこんなに勉強できる奴が全国にいるのか?」
と不思議がっていたが、東京に出てきてそれはわかった。
先日も、大きく「N」と書かれたバッグを背負う少年が、
土曜の早朝、銀杏のきれいな通りを急いで駆けていった。
小学校6年生には見えない。
4年生か5年生。
近くの市営グラウンドでは、ボーイスカウトチームが集合し、
グラウンド中央には、
少年野球の指導者らしいお父さん達が集まっている。
都市近郊では、
田舎者の教師が過ごした風景と異なる多様な時代が、
小学生を取り巻いている。
小学生とその親は、どの道かを選ばねばならない。
すべては決まらないが、小学生時代に大きな岐路がある。
新保守主義?市場原理?の影響で、
教育の現場にも「選別」としての機能が目立ってきた。
「学校の選別としての機能」はもうずっと前から指摘され、
事実、その役割を果たしてきたわけだが、
ここまでハッキリとメディアでも言われたのは、
ここ数年のこと、だと思う。
保護者との面談を終えたが、
「自分の子がこの学校でどのくらいの位置にいるのか?」
はおおきな関心事である。
自分の子どもがどっち側なのか、それは気になることだろう。
でも、
「どっち側ということはないんですよ。
それに彼は彼ですから。」
ということにしている。親は、私の言葉を何となく聞いている。
私たちの学校は、彼らの心と知的能力を育て、
大学に送ることが社会的使命である。
だから最近は、
「大学がこの生徒たちをどのように育ててくれるのか」、
ということが気になる。
自分の大学時代を振り返っても、
難関大学にこういった「育成観」みたいなものがあるのか、
疑わしいからである。
それでも最近は、
「うちの大学はこのように育てます」といったコピ-や、
事実、「シラバス」といったものあるらしく、
先日、公募された方の成績表を見ると、
半期制なのか、細かく単位化された科目の、良い成績が目立った。
「そうだよな、試験範囲が狭い方が対策は立てやすいよな。」
僕たちが大学生だった頃、確率論の授業の考査は年に1回だった。
あれは最悪だった。
無理に勉強して、自分の能力を超える東京の大学に来たものだから、
本当に僕は数学の学習に苦しんだ。
最近の大学は、東大でさえも、入学初年度に少人数ゼミを開き、
「学びの技法」セミナーみたいなものを開いているらしい。
昭和の終わり、平成の始まりの頃の第2次ベビーブーム世代には、
羨ましい限りの「育成コンセプト」だ。
雑誌や新聞を読む限りでは、
やはり旧七帝大や東京の大学が高評価である。
でも担任として、あるいは親として大学に期待したいのは、
やはり「育成」である。
研究者の卵として、あるいは企業社会の担い手として、
どう面倒をみて、育ててくれるのか。
そういった熱意が見れれば、それでいい。
もちろん、難関大に入った生徒に、
過度に干渉するのは良くないかも知れない。
しかし、ちょっと記憶力に優れただけで
大学に入ってしまった子がいることも事実。
そういった子にも論理の魂を注ぎ込み、
安定で誠実な社会の担い手として飛び立ってもらわねば、
困るし、そうすることが明るい未来につながる。
大学の学長の文言だけでなく、教員・職員をあげて、
学生の育成に傾倒していってほしい、と願う。
景気・不景気が直撃しない職場にいるので、
その風を感じることは少ないです。
ただ、ここ10年の経験から、
まったく不景気が関係ないということはない、
ということもわかってきました。
不景気となると、
私学の学校経営も緊張することは、
経営者の顔つきや言動から察せられる。
ただ、だからといって他で利益が向上できる仕事ではないので、
できることと言えば無駄なものを消費せぬこと。
また不景気は、保護者からも感じられます。
もう行事の残金や部活の遠征の残金は即刻、返す。
以前は、「合宿行くことに意味はあるのですか?」
と問われたこともある。1円も無駄にできない。
また、そう言った声が聞こえてくることも覚悟せねば。
そんな中、朝刊で大学の広告が目立つようになった。
こういった広告費も大変な額になるだろうが、
それでも全国から優秀な人材を集めたい。
それは少子化が懸念される昨今では、
私立学校として死活問題であることは理解できる。
田舎の高校生だった頃は、
その高校でけっこう成績が良かった方だったので、
「どうしてこんなに勉強できる奴が全国にいるのか?」
と不思議がっていたが、東京に出てきてそれはわかった。
先日も、大きく「N」と書かれたバッグを背負う少年が、
土曜の早朝、銀杏のきれいな通りを急いで駆けていった。
小学校6年生には見えない。
4年生か5年生。
近くの市営グラウンドでは、ボーイスカウトチームが集合し、
グラウンド中央には、
少年野球の指導者らしいお父さん達が集まっている。
都市近郊では、
田舎者の教師が過ごした風景と異なる多様な時代が、
小学生を取り巻いている。
小学生とその親は、どの道かを選ばねばならない。
すべては決まらないが、小学生時代に大きな岐路がある。
新保守主義?市場原理?の影響で、
教育の現場にも「選別」としての機能が目立ってきた。
「学校の選別としての機能」はもうずっと前から指摘され、
事実、その役割を果たしてきたわけだが、
ここまでハッキリとメディアでも言われたのは、
ここ数年のこと、だと思う。
保護者との面談を終えたが、
「自分の子がこの学校でどのくらいの位置にいるのか?」
はおおきな関心事である。
自分の子どもがどっち側なのか、それは気になることだろう。
でも、
「どっち側ということはないんですよ。
それに彼は彼ですから。」
ということにしている。親は、私の言葉を何となく聞いている。
私たちの学校は、彼らの心と知的能力を育て、
大学に送ることが社会的使命である。
だから最近は、
「大学がこの生徒たちをどのように育ててくれるのか」、
ということが気になる。
自分の大学時代を振り返っても、
難関大学にこういった「育成観」みたいなものがあるのか、
疑わしいからである。
それでも最近は、
「うちの大学はこのように育てます」といったコピ-や、
事実、「シラバス」といったものあるらしく、
先日、公募された方の成績表を見ると、
半期制なのか、細かく単位化された科目の、良い成績が目立った。
「そうだよな、試験範囲が狭い方が対策は立てやすいよな。」
僕たちが大学生だった頃、確率論の授業の考査は年に1回だった。
あれは最悪だった。
無理に勉強して、自分の能力を超える東京の大学に来たものだから、
本当に僕は数学の学習に苦しんだ。
最近の大学は、東大でさえも、入学初年度に少人数ゼミを開き、
「学びの技法」セミナーみたいなものを開いているらしい。
昭和の終わり、平成の始まりの頃の第2次ベビーブーム世代には、
羨ましい限りの「育成コンセプト」だ。
雑誌や新聞を読む限りでは、
やはり旧七帝大や東京の大学が高評価である。
でも担任として、あるいは親として大学に期待したいのは、
やはり「育成」である。
研究者の卵として、あるいは企業社会の担い手として、
どう面倒をみて、育ててくれるのか。
そういった熱意が見れれば、それでいい。
もちろん、難関大に入った生徒に、
過度に干渉するのは良くないかも知れない。
しかし、ちょっと記憶力に優れただけで
大学に入ってしまった子がいることも事実。
そういった子にも論理の魂を注ぎ込み、
安定で誠実な社会の担い手として飛び立ってもらわねば、
困るし、そうすることが明るい未来につながる。
大学の学長の文言だけでなく、教員・職員をあげて、
学生の育成に傾倒していってほしい、と願う。