中高一貫の私立男子校に勤務してるロベルトです。
私が就職した当時は、中高一貫の学校が評価をより高めつつあり、
公立でも中高一貫校を設立する、
という動きが見えはじめていた頃でした。
私も数学のカリキュラムの合理性・効率性から、
「就職するなら私立中高一貫」と絞り、
そこで現在の勤務校と縁が出来ました。
ところでやはり内部にはいると見え方は違ってくるモノで、
本校でもやはり一般にあるように「中弛み」というか、
中学3年、高校1年の生徒の不勉強は目立ちます。
しかし、これは単に「中弛み」という言葉でくくれるような
事柄ではないなと最近思っています。
やはり身長が急激に伸びるこの時期、彼らの世界の見え方は、
日々変わっていくのでしょう。
視線は高くなりますから、視界は広くなりすよね?
もちろん脳も成長し、
それまで偉大だった父や母も、気がつけば自分より小さく、
また以前より確実にだんだんと年老いていく。
反抗期とはその過程の、
世代の新陳代謝というべきモノであって、
たんなる心理的不安定ではないのではない、
と思っています。
しかし大人は、あるいは人類はこれまで文明の発展の中で、
たしかな人間社会を築いてきました。
これは単に身長が170cmを越えたからといって、
その辺の男子が簡単に超克出来るような社会ではありません。
そこでまた青年は、社会への適応を考えるわけです。
ところが中高一貫校では、15歳の少年が適応すべき社会は、
相も変わらず、いつも通っている親しみのある学舎。
受験失敗という不安は12歳で済ました特権で、
そこでの葛藤は微々たるモノです。
(だれが作ったか、
教育原理の授業で習ったのかさえ忘れてしまいましたが)
6-3-3制というのは男子の成長を考えた場合、
けっこう良い制度では無いのかと、最近、思っています。
「15の春を泣かせるな」と金八先生も言ってましたが、
15歳というのは、そういった身体的成長と精神的成長の時期で、
そういう現実と向き合う大切な時期だと思い始めています。
最近は「子どもは小さな大人」とトリートするようなことが増え、
「それはちょっとちがうんじゃない?」と度々思うので、
こういった観が、日に日に増しています。
また、教育現場にも市場原理が入り込んできて、
私たちの職場も、
サービスとしての教育という観点が強くなってきました。
しかし本来、教育というのはサービスとは違うモノではなかったか?
でも実際ににサービス向上という市場原理が入ることで、
中高一貫の学校も中学受験専門塾と一緒になって、
今、教育の本質不在の教育過熱現象が小学校と中学校という、
義務教育年代にまでどっぷり浸っていると言えます。
これまで高校・高校受験、
あるいは大学・大学受験・就職活動が担ってきた社会的機能が、
(正しくは背負わされてきた制度が)
現実と夢想の境界になっていたと、
僕が田舎にいる頃まで(つまり昭和の終わりまで)は、
言えると思います。そういった点で、
最近、子どもの活力が失われていると評判ですが、
失わせているのは大人社会とその価値観ではないでしょうか?
中学1年生の段階で、
「Jリーグに行くか、有名大学に行くか」
を選択し、どちらかを諦めなければならない現実を
子どもに見せているからです。
すいません、評論(結論ありきの思いこみ)が過ぎました。
とりあえず、
私の子ども達は公立の中学校に行かせようと思っている、
ということを書きたかっただけです。
15歳と16歳の間に関門があることも、
大学受験という灰色の季節があることも、
そんなに悪いことではない、と思うからです。
6-3-3については、うまく書けませんでしたが、
子どもの成長にとって合理的な制度だと今は思っている、
ということです。
私が就職した当時は、中高一貫の学校が評価をより高めつつあり、
公立でも中高一貫校を設立する、
という動きが見えはじめていた頃でした。
私も数学のカリキュラムの合理性・効率性から、
「就職するなら私立中高一貫」と絞り、
そこで現在の勤務校と縁が出来ました。
ところでやはり内部にはいると見え方は違ってくるモノで、
本校でもやはり一般にあるように「中弛み」というか、
中学3年、高校1年の生徒の不勉強は目立ちます。
しかし、これは単に「中弛み」という言葉でくくれるような
事柄ではないなと最近思っています。
やはり身長が急激に伸びるこの時期、彼らの世界の見え方は、
日々変わっていくのでしょう。
視線は高くなりますから、視界は広くなりすよね?
もちろん脳も成長し、
それまで偉大だった父や母も、気がつけば自分より小さく、
また以前より確実にだんだんと年老いていく。
反抗期とはその過程の、
世代の新陳代謝というべきモノであって、
たんなる心理的不安定ではないのではない、
と思っています。
しかし大人は、あるいは人類はこれまで文明の発展の中で、
たしかな人間社会を築いてきました。
これは単に身長が170cmを越えたからといって、
その辺の男子が簡単に超克出来るような社会ではありません。
そこでまた青年は、社会への適応を考えるわけです。
ところが中高一貫校では、15歳の少年が適応すべき社会は、
相も変わらず、いつも通っている親しみのある学舎。
受験失敗という不安は12歳で済ました特権で、
そこでの葛藤は微々たるモノです。
(だれが作ったか、
教育原理の授業で習ったのかさえ忘れてしまいましたが)
6-3-3制というのは男子の成長を考えた場合、
けっこう良い制度では無いのかと、最近、思っています。
「15の春を泣かせるな」と金八先生も言ってましたが、
15歳というのは、そういった身体的成長と精神的成長の時期で、
そういう現実と向き合う大切な時期だと思い始めています。
最近は「子どもは小さな大人」とトリートするようなことが増え、
「それはちょっとちがうんじゃない?」と度々思うので、
こういった観が、日に日に増しています。
また、教育現場にも市場原理が入り込んできて、
私たちの職場も、
サービスとしての教育という観点が強くなってきました。
しかし本来、教育というのはサービスとは違うモノではなかったか?
でも実際ににサービス向上という市場原理が入ることで、
中高一貫の学校も中学受験専門塾と一緒になって、
今、教育の本質不在の教育過熱現象が小学校と中学校という、
義務教育年代にまでどっぷり浸っていると言えます。
これまで高校・高校受験、
あるいは大学・大学受験・就職活動が担ってきた社会的機能が、
(正しくは背負わされてきた制度が)
現実と夢想の境界になっていたと、
僕が田舎にいる頃まで(つまり昭和の終わりまで)は、
言えると思います。そういった点で、
最近、子どもの活力が失われていると評判ですが、
失わせているのは大人社会とその価値観ではないでしょうか?
中学1年生の段階で、
「Jリーグに行くか、有名大学に行くか」
を選択し、どちらかを諦めなければならない現実を
子どもに見せているからです。
すいません、評論(結論ありきの思いこみ)が過ぎました。
とりあえず、
私の子ども達は公立の中学校に行かせようと思っている、
ということを書きたかっただけです。
15歳と16歳の間に関門があることも、
大学受験という灰色の季節があることも、
そんなに悪いことではない、と思うからです。
6-3-3については、うまく書けませんでしたが、
子どもの成長にとって合理的な制度だと今は思っている、
ということです。