今日のニュースで、
「いちご研究所」なるものが設立された、と報道されていた。
私の生家でも、いちごを栽培し、果実を収穫し、出荷していた。
秋から冬にかけて、
母が(父も力仕事は手伝って)いちごのハウス栽培をしていた。

先日、自分の半生を嘆いているようなことを書いたが、
いまは、それをとても悔いている。
いちごの映像を見たとき、それはいっそう強くなった。

幼い頃、出荷できないふぞろいな苺たちは、
夕食後のデザートとして、私たちの目の前に置かれた。
最盛期の1月から2月になると、コタツのテーブルに置かれる苺の量は、
おそらく、このブログの読者の想像を超えている。
なんせ、育ち盛りの男兄弟が束になっても食べきれないくらい、
大きな皿に盛られているのだから。すさまじい量だった。
苺好きな方は、もうヨダレがしたたるのでは?

決して裕福な家庭ではなかった。
むしろ、貧しい方だったと思う。
でも、寒い冬でも、ひもじい思いはしなかった。
幸せだった。

いまの自分に至るまで、
僕自身、努力は重ねてきたし、
父や母は無理をして、僕を東京の大学へ送りだしてくれた。
大学時代の不勉強は、いくら後悔しても取り返せない。
また、いまの職場でも、
最初の数年は数学に対して怠慢だった、と思う。
それでも、日々できる限りのことはして、
そのときそのときベストの選択・判断を重ねてきた。

目を閉じると、
あたたかな思いが広がる。
おいしい苺と優しい母の笑顔。
テレビドラマから飛び出してきたような、熱血な小学校の先生。
おしゃべりが上手で、笑いが絶えない、塾の数学の授業。

そういえば、あの塾も、いま思えば、プレハブの建物だった。
冴えてるジョークが最高な数学教師は、塾長の実弟で、副塾長。
冷静でニヒルな塾長は、いつも最後の授業で生徒を泣かすらしい。
不覚ながら、それを知らなかった私は、やはり泣いた。

貧しいくても、ボロッちくても、
そこは、ときに熱く、いつもあたたかだった。
僕はそういうところで育った。
それは恥ずべきことではない。