先日は、ホントにつまらないことを書いた。
才能と環境に恵まれる生徒に嫉妬し、自分の半生を後悔するなんて。
なんと意味のないことだ。

アメリカで頑張っている教え子がいる。
親の仕事の都合で転校していったが、
自分の才能に気づかせてくれた人がいたようで、
現在はその才能を活かし、奨学金で大学に通っている。

久しぶりの帰国の際に、話に花が咲いた。
それにしても凱旋である。
「どうしてうまくいったと思う?」
「僕は、アメリカ社会にadaptしましたから。」

アダプト。適合ということか。
成功するときには、
やはりその社会・文化・文脈に適合する必要はあるのだろう。

思えば、自分も「ここに適合しよう」と無理に、
自分を合わせたきたところがある。
大学院に入った後、就職した後。
「自分らしく」というより、「どうすれば自分が評価されるか。」

よく考えれば、それほど意味のあることではないが、
(なぜかというと、それぞれの場所は
 「私を評価してくれて入れてくれた」わけであるから、
 期待に応えようとするのは良いが、
 その組織に自分を合わせよう、というのは、
 採用してくれた側からすれば、
 「それは本末転倒」とも映ることである。)
若い時分は、おうおうにしてそういうことが多いだろう。

逆に今は、無理に他に合わせようという生徒を見ると、
「無理に適合しようとしなくて良いんだよ。
 自分は自分らしく。」
というようにしている。
(もちろん学校生活のことをいっているわけではない。
 学校生活のルールは守ってもらわないと困ることは多い。)
何が好きか、何を勉強したいか。
何を優先したいのか、勉強・クラブ・ボランティア?
放課後は、何を一番したい?
サッカーなのか、将棋なのか。

一方で、すでに有名大学への合格を目指し、
評判の塾に通っている生徒もいる。
運動能力・運動習慣に欠けるところが目立つが、
それが彼の人生なら仕方ない。
でもそれは彼自身が望んでそうしているのか?
保護者と話している限りはそうは思えない。

先日の夕刊の記事はショックだった。
現在、世界経済は深刻な状況なようであるが、
その最前線で働く有能な人が、仕事の後や週末に、
絵本セラピーなどを受けているというのである。
心の中のほんわかとした何かを感じると、
リフレッシュされるようである。

社会に適合する必要はあるだろう。
それに懸命にならなければいけない時期もある。
僕にもあった。
でも自分のネイティブなものに正直であってもいいだろう。
ときには、自分は自分らしく。
何かを見失わないように、大事な何かを。

さあ、また来週、頑張ろう。('-^*)/