「おまえとしゃべっているとおもしろくない。
 辛気くさくて、後ろ向き。もう、ええかげんにして。」
私が友人だった人に、こう言われることのは少なくありません。
とくに大学生のころは。
現在は、そういう自分が嫌で、
「もうあの頃の自分ではありません。もう細胞は代謝し、生まれ変わりました。」
というくらい開き直っている。

おじいちゃん子だったせいか、
考え方が保守的。何事に対しても辛気くさくて、批判的。
「おれ、最近、こんなんにはまってるねん。」
「それ、なにが楽しいの?」
あの手この手を使って、
「そんなん、おもしろいんか。」
「おまえとは口聞かない。」

「おれ、こういうことにチャレンジしてみようと思うねん。」
「そんなん、巻き込まれる方は迷惑やで。」
「おまえとは、よう、口きかん。」

小学一年生から新聞は読んでいた。
祖父も父も、縁側で新聞を読んでいたからだ。
「毎朝、新聞を読んでいる」
と小学校の先生に言ったら、みんなの前で誉められた。
いまでも毎朝、新聞は隅から隅まで読む。
中学生や高校生の時、
孔子の「論語」などが、妙に納得できた。
「さすがにいいこというようなあ、仙人は。」
と同級生に言ったら、
「論語とか面白くない。
 よく、おまえはあんなの真面目に聞いてられるな?」
「ふん。おまえなんか成績の悪い奴に言われたくない。」

就職しても「そんなに、若々しくないね。」といわれる始末。
プレッシャーがかかると、一度脱ぎ捨てたはずの、保守の殻がまた。
「そうだよ、賢人は『先憂後楽』。まず、心配を解消してから。」

もう、そんなんどうでもいい。
既成観念に縛られたら、創造的な仕事はできない。
私の仕事は、未来を育てること。

新聞読んでると気持ちが暗くなる、とくに最近は。
憂いてばかりはいられない。
明るく生きよう。

もういいかあ、新聞読まなくても。常識的に生きられるだろ、もう。
「我、四十にして、人の規を越えず。」
おい、また論語かよ。