昔話です。もう20年も前の話です。
東京の大学に受かり、上京する直前に、
所属していた部活動のOB会がありました。
OBになりたての私は、
親しかった友人を誘って、その会に参加しました。

顧問の先生に挨拶に行くと、
少し年齢が上の先輩が就職が決まったことを報告をしていました。
顧問の先生と同じ大学を出て、
無事に教員になることができたようです。
調子にのって、僕も話に加わりました。
「私も、教職を考えてます。」
「大学は?」
「東京の私立の大学です。」
「そんなところ行っても、就職はないよ。」
「…」

なんで?
地元の教員養成系の国立大学より偏差値は高いのに?
あんなに勉強して受かったのに。
この先輩以外は、
みんな、「すごい、すごい」って言ってくれるのに。

どうしてか、ということは聞きませんでしたが、
地元の教員になりたければ地元の国立大学教育学部に行くのが一番なのだ、
と言いたかったのでしょう。
そういえば、1つ年上の先輩は、そう言ってませんが、実践していました。
その先輩は、あんまり勉強しているようには見えませんでしたが、
いまは立派に地元の先生をしています。
たまに郷里に帰ると、母親がさびしそうにその話をします。

旧師範学校である地元国立大の方が何かと優遇されるのだ、ということは
実際に地元の教員採用試験を受けたときに感じたし、
今回の大分の事件を聞いて、
「やっぱりそうなのか」とあらためて感じることはあります。

それでも、より難しい大学に受かった方が実力はあるわけだし、
たとえ地元への就職のコネがなくなったとしても、
自分の実力を正当に評価してくれる学校に勤めればいいのだ、
と、そののち固く決意することになりました。

「いまごろ、なにを」と思うところがありますが、
大分の事件をキッカケにこれから教員を志望する学生が、
コネや血縁、口利きではなく、熱意と実力本位で、
教職に就くことができる社会となることを期待します。

ところで、実際に教員になってみると、
センター試験で高得点をとるように勉強したことのほとんどが、
意味を持たないことを感じます。それは先日、書いたとおりです。

「先生になるのだったら、いろんなコトを知っていないと。」
「なんでも器用にこなせるようじゃないと。」
「なんでも平均点以上じゃないと。」

僕は僕なりに頑張って、どの科目も平均点以上はとりました。
スポーツも頑張りました。
でも、そんなの、生徒の前に立つと無意味です。
保護者の前では、
「まあ、それなりの人らしいわね。」と好印象に見えるかもしれませんが、
それは本当の仕事の半分も占めません。

数学の才能にあふれた後輩を見ると、
(自分の「器用貧乏」といったらまた自慢に聞こえますが、)
とくに自分の数学の勉強不足には泣かされます。
後輩が、本校の採用試験の際に言った、
「とにかく数学が大好きです。この大好きな数学を子ども達に教えたい。」
の言葉は、いまでも覚えています。

なにか1つのことに夢中になり、一笑懸命勉強すること。
物理や化学、英語が得意でした、国立大はどこを受けました、
と言ったところで、生徒に数学を教えるとき、どれほど意味があるのか?

話は変わって、この夏の研究集会では、
正直、辟易するような発表もありました。
「なんだ、そんなことも知らないのか。」
自分も勉強不足だと思っていましたが、
自分より勉強していない人がいる。
恥ずかしい話ですが、自分もまんざらではない、と開き直りました。
(「そうだ、なにもそんなに卑下することないぞ。
  僕は高校生の時も、大学生の時も、
  それなりに誠実に勉強したじゃないか。
  数学のなんたるかがわからないままだったけど。
  地元の教員になるなら、これくらいの勉強でいい。」
  なんて思わずに、
  自分にできるだけの勉強をしたじゃないか。」)

いまの自分は、これまでの自分の勉強と決心の総体なのだと思います。
まだまだ未熟と、もう言えない年齢になってきましたが、
そうであるからこそ、
自分の未熟さと、また自信とが見えてみました。

「この程度でいい。あとは誰かが何とかしてくれる、就職は。」
と思っている人がいたら、それはやめたほうがいい。

自分がある科目の専門家になりたいのだとしたら、
やはりレベル高く学べるところへ行った方がいい。
いや、僕は教育理論を学びたいんだと思えば、
教員養成系大学へ行けばいいんだど、と思う。

一方、いまの職場に勤めていて、他の人に感じることがあります。
「教育の理論には疎いな。でもこの人、専門知識はすごいな。」
ということです。
高校、しかも進学校ならこれの方がいいのかもしれない。
でも、とくにうちの中学生には、
少しの教育の原理も必要なような気がするときもあります。

理学系でよかったのか、教員養成系がよかったのか。

いまの自分は、これまでの迷いと決断の総体。
「俺は東京へ行く。」
あの決断が正しかったと、
胸を張れるようにもっと勉強しようと思う、秋の夜です。