日本数学教育学会 第90回総会
兼 第90回全国算数・数学教育研究(福島)大会
に行ってきました。
えーと、あと2つの大会を兼ねていますがそれは略します。
また、本校ではこの会のことを「日数教」と呼んでいますので、
これからは日数教と表現します。
前回、日数教に行ったのが長崎大会ですから、もう10数年ぶりになります。
あのころは、まだ私も大学院を出たばっかりだったので、
「何、数学教育?現場の先生はどんな研究をしてるんだ。」
と目を△にして聞き回って、ヘトヘトになりました。
「これで研究といえるのか!」
「なんと、こういう観点もあるのか。」
と賛否両論、ケンケンガクガクでしたが、
とにかく暑かったのはよく覚えています。
ケチをつけといてなんですが、当の私の方は、
「さあ、現場で研究するぞ。」
と勇んでいたものの、
クラブの指導やその他の多くの仕事で手いっぱいになってしまい、
探求心はすっかりどこかに行ってしまいました。
そのあと担任(6年間)にはいると、もう教材研究の自転車操業でした。
でも途中、数学史を研究したくなり、
専門書を少し集めましたが、またその心は風化してしまいました。
あらためて、今回はフル参加して、多くの先生方から、
熱意と探求心をわけてもらおうと、郡山まで行って来ました。
もう1人の同僚と行ったので、私は主に中学部会の方の話を聞くことにしました。
まず基調講演。
なかなかいいですね。
何がいいかというと、資料に科学哲学者B.ラッセルの引用がありました。
よく読むとこれは、「師範学校 数学教育」の史料でした。
いいなあ、この文章。
師範学校の先生方の熱意が、時を超えて伝わってきます。
中学部会講演では清水美憲筑波大学大学院准教授のお話(以下、清水教授)。
なんと同世代。
しかも話は、本人曰く「レトロ調」で「考える教育」。
新指導要領はさておいて、である。
しかも引用は、G.ポリア、A.H.ショーンフェルド。
おお、我が青春の「数学的問題解決」。
ああ、ショ-ンフェルドとM.ランパードの論文は読みまくったよ。
失礼ながら、話の展開はよめた。
これはショーンフェルドの数学教育観のお話ね。
清水教授のオリジナリティは、2つのメタ、かな。
なるほど、私も当時、ショーンフェルドの論文を読んだが、
メタを2つに分類することはできなかったよ。なるほど。
数学教員としてのメタ知識とメタ認知ということね。
しかし、ここで、この内容で講演とは。
ポリアはもとより、ショーンフェルドも全国区だね。
そりゃそうか。私がショーンフェルドの論文を読み始めたのも、
とある先生の引用があったからだもんね。
UCバークレー系の構成主義認知論。90年代前半の研究の再評価ですかね?
翌日、中学の研究部会。
やはり若い先生は、ちょっと大風呂敷を敷きすぎか?
また、
新指導要領のコンピテンシーとかリテラシーという新用語に、
引っ張られすぎた感のある研究テーマが多い。
「それが数学か?数学教育の研究なのか?」
抽象的なテーマから授業実践の報告になるのだから、
そのギャップを埋める論の長いこと、長いこと。
長いわりには論に飛躍があり、
まったくもって、研究授業の主旨と整合性が?です。
まあ、仕方ない。若いし。
一方で、助言者の大学の先生の歯切れがよくてグ~。
「この序文はいらん!」
「新指導要領のことはいいから、もっと数学を。」
いいねえ、新指導要領はさておいて、というのは。
そうそう清水教授のいう、「不易」ね。
流行じゃなくて不易。
私たちは、数千年の人間の営みの所産である数学を教えているのだから。
具体的な授業実践の報告が、失礼ながら、イマイチ。
うーん、理論武装しすぎ。
それにしても、どうしてこうも「数学的リテラシー」とか、
「数学的○○」という用語が多いのか?
(あとで、その謎は解けますが…。)
人だかりのできている会場がありました。
「何だ、この盛況な会場は?」
なるほど、重みがある。
人柄にも、内容にも。
ちゃんと理論的な背景もおさえているが、
報告は、基本的に自分の考え。
生徒に恵まれている感はあるが、それでも内容はグ~。
観点がグ~。
私もこういう研究がしたくなってきた。
最終日。シンポジウム。
大学の先生、小中の先生、文部科学省の役人の方も集まって、
フロアの方も質疑応答できる会。
テーマは「算数・数学教育に期待されるのもの」。
しかし、しかし、である。
初日、研究部会と感じられたものが、この会にはない。
質問が文部省の方に集中する。
この方の返答には、数学への何かが感じられない。
数学への何?
数学への愛、数学に対する尊厳…
リスペクト!
そう、現場の先生や数学あるいは
数学を教えていることに対するリスペクトが感じられない。
これが、生徒のいう「上から目線」かあ。
それは文部科学省、新指導要領の理屈だろう。
数千年の歴史をもつ数学に対して、なんたる軽い扱いか。
まあ、仕方ない。
なるほど、話はうまい。
でも、言ってることの実態が見えない。
観念論だなあ、観念論。
中央官庁やマスコミの表現だよな。
なるほど、「数学的リテラシー」とか「数学の活用」とかいう言葉が出てくるわけだ。
基調講演とは、似ても似つかぬ内容。
これが教育委員会を通じて現場に降りてくるのかあ。
なるほど、上手く伝達が行かないわけだ。
なるほど、現場の先生の研究に「流行りの言葉」が出てくるわけだ。
相当混乱しているね。何を信じていいのか。
信じていいものは目の前にあるのに。数千の人類の叡智の結晶「数学」。
官僚の人って、頭いいね。幸せなんだろうな。
自分の言ってることが絶対に正しい、って思えるって幸せだよなあ。
ガッカリもしたけど、それ以上に勇気づけられた会だった。
来年は京都かあ。
来年は発表しようかなあ。
とりあえず、足は運ぼうかなあ。
アディオス('-^*)/
兼 第90回全国算数・数学教育研究(福島)大会
に行ってきました。
えーと、あと2つの大会を兼ねていますがそれは略します。
また、本校ではこの会のことを「日数教」と呼んでいますので、
これからは日数教と表現します。
前回、日数教に行ったのが長崎大会ですから、もう10数年ぶりになります。
あのころは、まだ私も大学院を出たばっかりだったので、
「何、数学教育?現場の先生はどんな研究をしてるんだ。」
と目を△にして聞き回って、ヘトヘトになりました。
「これで研究といえるのか!」
「なんと、こういう観点もあるのか。」
と賛否両論、ケンケンガクガクでしたが、
とにかく暑かったのはよく覚えています。
ケチをつけといてなんですが、当の私の方は、
「さあ、現場で研究するぞ。」
と勇んでいたものの、
クラブの指導やその他の多くの仕事で手いっぱいになってしまい、
探求心はすっかりどこかに行ってしまいました。
そのあと担任(6年間)にはいると、もう教材研究の自転車操業でした。
でも途中、数学史を研究したくなり、
専門書を少し集めましたが、またその心は風化してしまいました。
あらためて、今回はフル参加して、多くの先生方から、
熱意と探求心をわけてもらおうと、郡山まで行って来ました。
もう1人の同僚と行ったので、私は主に中学部会の方の話を聞くことにしました。
まず基調講演。
なかなかいいですね。
何がいいかというと、資料に科学哲学者B.ラッセルの引用がありました。
よく読むとこれは、「師範学校 数学教育」の史料でした。
いいなあ、この文章。
師範学校の先生方の熱意が、時を超えて伝わってきます。
中学部会講演では清水美憲筑波大学大学院准教授のお話(以下、清水教授)。
なんと同世代。
しかも話は、本人曰く「レトロ調」で「考える教育」。
新指導要領はさておいて、である。
しかも引用は、G.ポリア、A.H.ショーンフェルド。
おお、我が青春の「数学的問題解決」。
ああ、ショ-ンフェルドとM.ランパードの論文は読みまくったよ。
失礼ながら、話の展開はよめた。
これはショーンフェルドの数学教育観のお話ね。
清水教授のオリジナリティは、2つのメタ、かな。
なるほど、私も当時、ショーンフェルドの論文を読んだが、
メタを2つに分類することはできなかったよ。なるほど。
数学教員としてのメタ知識とメタ認知ということね。
しかし、ここで、この内容で講演とは。
ポリアはもとより、ショーンフェルドも全国区だね。
そりゃそうか。私がショーンフェルドの論文を読み始めたのも、
とある先生の引用があったからだもんね。
UCバークレー系の構成主義認知論。90年代前半の研究の再評価ですかね?
翌日、中学の研究部会。
やはり若い先生は、ちょっと大風呂敷を敷きすぎか?
また、
新指導要領のコンピテンシーとかリテラシーという新用語に、
引っ張られすぎた感のある研究テーマが多い。
「それが数学か?数学教育の研究なのか?」
抽象的なテーマから授業実践の報告になるのだから、
そのギャップを埋める論の長いこと、長いこと。
長いわりには論に飛躍があり、
まったくもって、研究授業の主旨と整合性が?です。
まあ、仕方ない。若いし。
一方で、助言者の大学の先生の歯切れがよくてグ~。
「この序文はいらん!」
「新指導要領のことはいいから、もっと数学を。」
いいねえ、新指導要領はさておいて、というのは。
そうそう清水教授のいう、「不易」ね。
流行じゃなくて不易。
私たちは、数千年の人間の営みの所産である数学を教えているのだから。
具体的な授業実践の報告が、失礼ながら、イマイチ。
うーん、理論武装しすぎ。
それにしても、どうしてこうも「数学的リテラシー」とか、
「数学的○○」という用語が多いのか?
(あとで、その謎は解けますが…。)
人だかりのできている会場がありました。
「何だ、この盛況な会場は?」
なるほど、重みがある。
人柄にも、内容にも。
ちゃんと理論的な背景もおさえているが、
報告は、基本的に自分の考え。
生徒に恵まれている感はあるが、それでも内容はグ~。
観点がグ~。
私もこういう研究がしたくなってきた。
最終日。シンポジウム。
大学の先生、小中の先生、文部科学省の役人の方も集まって、
フロアの方も質疑応答できる会。
テーマは「算数・数学教育に期待されるのもの」。
しかし、しかし、である。
初日、研究部会と感じられたものが、この会にはない。
質問が文部省の方に集中する。
この方の返答には、数学への何かが感じられない。
数学への何?
数学への愛、数学に対する尊厳…
リスペクト!
そう、現場の先生や数学あるいは
数学を教えていることに対するリスペクトが感じられない。
これが、生徒のいう「上から目線」かあ。
それは文部科学省、新指導要領の理屈だろう。
数千年の歴史をもつ数学に対して、なんたる軽い扱いか。
まあ、仕方ない。
なるほど、話はうまい。
でも、言ってることの実態が見えない。
観念論だなあ、観念論。
中央官庁やマスコミの表現だよな。
なるほど、「数学的リテラシー」とか「数学の活用」とかいう言葉が出てくるわけだ。
基調講演とは、似ても似つかぬ内容。
これが教育委員会を通じて現場に降りてくるのかあ。
なるほど、上手く伝達が行かないわけだ。
なるほど、現場の先生の研究に「流行りの言葉」が出てくるわけだ。
相当混乱しているね。何を信じていいのか。
信じていいものは目の前にあるのに。数千の人類の叡智の結晶「数学」。
官僚の人って、頭いいね。幸せなんだろうな。
自分の言ってることが絶対に正しい、って思えるって幸せだよなあ。
ガッカリもしたけど、それ以上に勇気づけられた会だった。
来年は京都かあ。
来年は発表しようかなあ。
とりあえず、足は運ぼうかなあ。
アディオス('-^*)/