夏休みです。
このブログの主題は、「授業報告」ですが、その授業がありません。
しかしながら、やっと手に入れた、「毎日ブログを書く時間」。
これを行使しないわけにはいきません。
夏休みの間は、
自分自身のこれまでの回想、あるいは一学期の回想を交えて、
出来るだけ毎日、ブログを更新していきたいと思います。

まず最初は、僕が教師になったきっかけです。
実家は兼業農家でしたから、近親者に教師をしている人もいません。
兄なんかはいまだに、
「おまえもたいへんな職業を選んだなあ。」
とか、
「やっぱり教師はノーテンキでいいなあ。不況も関係ないし。」
とか、まあ会えば適当なことを言います。
その程度の理解の家庭でした。
(こういう話なると、
 同僚の方々の近親者に「親の職業も教師」が多いのは、
 すごくビックリしました。)

教師という職業に興味を持ったのはやはり、
小学校4年生のときの担任の先生が素敵だったからでしょう。
若い男の先生でした。
熱血で、熱心な先生。児童はみんな大好きでした。
ちょうどその前後、テレビで「熱中時代」という、
水谷豊さん主演の教師ドラマが放映されていて、
それが画面を飛び出して、現実に僕たちの目の前で、
楽しい毎日が繰り広げられている感じでした。
それが小学校5年生のときに一変します。
いわゆるM教師が僕たちの担任になりました。
あれは「学級崩壊」のハシリだったと思うし、
私自身、その首謀者だったと思います。
親にしかられましたが、そのうち親の間でも、
「あの先生に問題がある」という認識が広がり、
母親が、「おまえをせめてごめんね」と謝ったのは、
苦い記憶として残っています。
PTAの圧力で、6年生時の担任は、
みんなが大好きだった4年生のときの担任の先生に
返り咲きました。
「こんなこともあるんだなあ」と、正直、思いました。

しかしながら僕は音痴で、また楽器も弾けません。
子ども達に、音楽や体育で鉄棒やマット運動などの器械体操も
教えられそうにありません。
「俺はなんでもできるわけではないから、小学校の先生は無理だ。」
と思っていました。
教師を職業になってみたいけど、俺には無理だな、と思っていました。

時は流れ、中学3年生のとき、成績が下がったので、
業を煮やした母親が、僕の耳を引っ張って塾に連れて行きました。
夏期講習に参加することになりました。
それまでは、まあ適当に数学なんて勉強してましたが、
この塾の数学の担当の先生の授業がすごい!
おもしろい。
話がうまい、わかりやすい。
キャラがおもしろい。
無駄話のオチがすごい。
数学なんて退屈で仕方なかったけれど、
「ああ、こんな数学の先生おんのんか。」
と思いました。はじめて数学の授業が楽しみになりました。
教師次第で授業への心持ちが変わる、
まして数学の授業で、とはじめて認識しました。
それでもまだこのころは、
「数学の教師になる」なんて、まったく決心していませんでした。

高校に入り、数学を熱心に勉強し始めました。
その理由は以前、このブログに書いた気がします。
中学ときの塾の先生のことは忘れてました。
教員になろうかなあ、とはうっすら想像してましたが、
なんの科目の先生になろうか、決めてはいませんでした。
まあ、音楽と体育はないなあ、と思ってましたけどね。
体育も「サッカーだけなら、あるいは球技だけなら」とは
考えましたが、そんなの無理ですよね。

あとは数学を勉強したいし、教師になる可能性を残したいと
いうことで、以前書いたように東京の大学に進学します。

ところが、ここで心境の変化があります。
じつは大学に入り、教職課程の単位習得をやめてしまったのです。
ときはバブルまっさっかり。
「おまえ、教師になるためにこの大学来たの?
 アホちゃう。」
みたいなことを言われ、
純朴な田舎の青年はすっかり毒されてしましました。
「大学なんて、踏み台や。
 おれはこれからビックになるやんや。
 もしかしたら中退するかもせえへん。
 でもな、俺はやりたいことを見つけるんや。
 見つかったら、それにまっしぐら。
 俺は億万長者になるぜ。ビックになるぜ。」
という隣の席の子に、すっかり影響を受けてしまいました。
この隣の席の青年は、たしかに2年後、大学を中退します。
理由はこういうことではなかったですが、
中退したのは間違いない。
私は、すっかり自分の道を見失ってしまいました。 (続く)