今朝も朝日新聞には、
「博士課程修了者(ポストドクター)の就職難」についての投書が掲載されていた。
今後の政策として、公的研究機関は、
「博士課程修了後5年以内の研究者のみ採用」
となるらしく、現在、職に就けていないポスドクには厳しい現実が待っているようだ。

この手の話しに出されると、
必ずアメリカとの比較になる。
アメリカでは、博士号取得者の就職は良いらしく、
「引く手あまた」らしい。
そうなると、「それに比べて日本は…」という話になる。
しかしながら、現実的には
やはり日本とアメリカでは比較にならないらしい。

よくきく話にだが、
「アメリカの大学は日本に比べ入学するのは易しいが、卒業するのはたいへん。」
というのがある。これは、アメリカに留学した教え子や同僚の話を聞くと、
とても日本で単にいうほど、「なまやさしいなものではない」らしい。
同僚の話によると、
「日々の課題の量が半端でない。
 アルバイトしながら勉強?とんでもない。
 日々、睡眠時間を削って、課題をこなす。
 土曜日がくるとホッとする。
 それでもまだ大学は楽だ。大学院はもっと厳しい。
 毎月、毎月、退学者がでる。
 そのうち数人は体調を崩し、鬱病になったり、
 ひどい場合は自殺している場合もあるようだ。
 アメリカで大学院を修了すると言うことは並みの能力と精神力ではない。
 私もギリギリのところだった。」

かたや日本はどうだろう?
文部科学省主導で、1990年代、国際競争に勝てる研究者の養成ということで、
大学院拡充政策をとった。
ちまたの大学のほとんどに大学院が併設された。
(そのころ私もちょうど学部を卒業することになった。
 また学費は学部に比べ手頃に設定された。)
しかしながら世間では「少子化」が懸念されていた。
そこで大学・大学院は社会人入学枠もつくった。
テレビには「○○大学教授」ではなく「○○大学大学院教授」と、
よりステータスをハッキリとさせるような表現も目立つようになった。
正直、入りやすい大学院が出来た。

隣の研究室は「社会人院生は研究活動に専念できない」という理由から、
社会人大学院生入学を拒んでいたという。
(その研究室の中のヒエラルキーは異質なものを感じたが)

文部科学省はポスドク支援の制度も整備した。
破格の待遇だった。
「これならかなりの生活ができるな。」
私も資料を取り寄せたが、条件を満たしそうになかった。
「社会に役に立つ研究かあ。
 推薦者の書類ねえ。」

修士論文を書くことに対して緊張はあったが、
毎日、眠れなかったということはない。
膨大な量の課題が出るということはない。
(資料探しはたいへんだったし、先行研究の分析も難航した。
 というのも先行研究は、かなりまた絞り込んだ内容だったので、
 「これじゃあ、書きたいことの半分も表現できない。」
 と思ったからだ。まあ、それは若気の至りだったが。)
およそ噂で聞くアメリカの比ではない、と思う。
こんなノーテンキなのは自分だけか、と心配だったので、
隣の研究室の人と付き合ってみると、みんな似たり寄ったり。
全員異苦同音に「将来への不安」を口にするが、
「大学教授になる野望」を持つ者もいて、
「そんなテーマの研究で、
 大学の先生になれる要件を満たす、研究論文が書けるのか」
と、たまの酒の席では口論になったこともある。
ノーテンキだよなあ。

これで国際競争に勝つ研究者になれるのか?
隣の研究室の博士課程の人を見て、
「おい、大丈夫か?」
と思うこともあった。
これも噂の域を出ないが、
リストカットしたりや新興宗教に入ったり人もいたと聞いた。
ノーテンキか強迫神経症か。
また一方で、寛容な日本の大学だからこそ、育つものもあるだろう。
「企業が博士課程修了者の1%しか採用してない」という評もあったが、
それはそうだろう。
アメリカの施策がそのまま適用できるような、大学院の風土なのか。

真面目に勉強さえしていれば博士になれる、というのは言い過ぎだ。
もちろん、
真面目に勉強している人が何かを達成できる世間であってほしいが、
視野の狭い、あるいは器量の小さい人間が
あまり高いステージにたってもらっては市井の人間が困る。

長くなったので結論。
研究をないがしろにするような政策は困るが、
増えすぎたポスドクを一律に救済するような施策も問題あるだろう。
適材適所。
大学の研究室に閉じこもらずに、自分を活かせる職場を見つけ、
そこで自分を磨こう。
それにしても、大学を増やしたり、大学院を増やしたり。
また法科大学院も。
見通しの甘い、現実的でない施策が目立つのは気のせいか。