今年のサッカー欧州選手権で久しぶりにドイツが優勝候補になった。
2002、2006のワールドカップでも
それぞれ準優勝、ベスト4と成績を残しているので、
当然と思われる人が多いかもしれないが、
実は4年前の欧州選手権では、ドイツは予選リーグで敗退している。
その前後、ドイツのサッカーは一時期低迷していた。
理由は、「オーバーコーチング」にあるとされた。
「育成段階の小学生・中学生の頃から、
 各サッカーチームは勝利を目指すために、
 ボールを器用な扱える選手より、身体が大きくて足の速い選手を重宝した。
 その結果、高校生(ユース)年代までに、
 からだが小さくても上手な選手は淘汰され、
 不器用でも体が大きく足が速い選手ばかりが
 強豪チームに集まるようになった。
 そこでコーチは選手達に
 『こういうときはこうしろ』
 と頭ごなしに教えた。
 しかし、サッカーのゴールは
 創造力と卓越した技術を発揮して生まれるもの。
 教えすぎで育てられた不器用な選手からはゴールは生まれない。
 ゴールが生まれなければ、試合に勝利することは出来ない。」
そこでドイツは国(サッカー協会)主導で、サッカーの現代化を図った。
その結果の優勝候補の呼び声である。

翻って、本校の数学の授業について。

補習が終わった。
ほんの数日の補習で、
数学の成績が芳しくない子が抜群の成績になるなんて、
そんなことがあり得るだろうか?
しかしながら、保護者と面談していると、
「夏休みの補習には出たんですけどねぇ…。」
と、こっちの指導力不足を成績不振の理由にされることもある。
いつもの「授業のリピート」の補習ではなく、
彼らが勉強したくなり、
抜本的に『学習観が変わる』補習が出来ないものだろうか?
そうずっと考えて、それを実践した。

それは「教えない」こと。
教えて、「こうすればいい」というようには語らないこと。
もっと過激に言えば、黒板に数式を書くことをしない。
黒板に書くことは、
「勉強することは自分のためになるんだ」
というようなポジティブなことだけ。
話すことも、
「自分が中学生だったとき、どんな風に数学を感じ、
 どうして自分が数学を勉強しようと思ったか。」
なんてことばっかり。
彼らの目線と同じ頃を思いだして見た。

プリントを数種類用意してみた。
手探りでこれを実践してみた。
毎回、ミニテストを実施。
テスト実施後、プリント配布。計算練習。
こっちはその間、ミニテストの採点。
採点終了後、不合格者にはまちがった問題の自己添削をさせる。
計算プリントについても解答を配布。
詳解はつけてない。自分で添削し、正答を得る方法を考える。
それぞれ引っ掛かるところは私に質問してよい。
それぞれ各種プリントは終了後提出。
回収した私は、補習後、それぞれのプリントの出来具合を確認。
生徒には、帰宅してもまた勉強が出来るように同じプリントを配布。
「明日、この問題の中からテストに出すぞ。」
テストには、途中の計算を必ず書くように指示。
「過程が大事。」
それを繰り返す。
途中質問に来た子に、「ここが違う。こうなるだろ。」
と教えてあげた。
席への帰り際ぼそっと、その子が隣の席の生徒につぶやくのが聞こえた。
「ロベルト先生、わかりやすい。」
正直うれしいが、事実はそうではない。
君が数日、この教室に通って、こういう補習を繰り返すことで、
「文字式の計算はこうすればいい」ということがわかりかけていたんだ、
その最後の一押しを僕がしただけ。

教育原理という教育の理論の言葉に、
「レディネス」という言葉がある。
「準備する=ready」の名詞形を意識した造語であったと、記憶している。
学生の頃、この「教育原理」の授業が嫌いでしかたなかった。
まったく何を言っているのかわからなかった。
熱心な講師が、熱く、教育愛について語っているように見え、
失礼ながら、「現実的でないね」とタカをくくっていた。
今頃になって、この辺りの言葉の重さを感じている。
彼らが理解できるのは、彼らの中に「レディネス」が出来たから。
成長段階・発育段階に即した方法でタイムリーに教えなくては?
たしか、小平邦彦さんも何か本の中でそう言っていた。
「生徒の理解度を無視して、過度に論理的に教える必要はない。」

1990年台前半、アメリカの算数教育の研究者マーガレット・ランパードが、
教室で児童が算数を理解していく授業の様子を叙述する、
という研究手法を発表した。
これは、
それまでの心理学的(ほとんど統計学)な教育評価・教育方法の研究手法で
いったい何が検証され、なにがわかるのか、
ということに気づいていた人たちから、
一躍脚光を浴びることになった(と記憶している)。
当時、M1だった私は、この話を聞き、
このエスノメソトロジカル研究をしている
アメリカの算数・数学教育の研究者の論文を探すために、
東京中の大学の図書館を歩いた。
「コグニション&イストラクション(認知と教授)」という雑誌。
(この雑誌は東大の教育学部図書館にたくさんあった。)
認知の社会的構成という考え方。


大学で勉強したことが今頃、役に立っている。
やはり理論は必要だ。
いや理論に裏付けられた自信に満ちた方法論というべきか。
「彼らが自己教育力を育むことできるような補習」
また、何かに一歩近づいた。