「誰もがなりたいものになれるわけではないが、
 なりたいと思わなければなれないのは事実である。」
禅問答のような言葉であるが、
以前、大学受験を控えた生徒たちに担任として話した言葉である。
おそらく、何かその手の本を読んで、ありがたくいただいた言葉である。

「プロ野球の選手になりたいからといって、
 誰もがそうなれるわけではない、というのはわかるよね。
 じゃあ、東大に入りたいと言ったらどうだろう。
 東大の合格者は数千人です。
 それくらいの数になると、『自分にもチャンスはあるかな?』と思うかな?
 ちなみに、僕がこの学校の採用試験を受けたとき、募集人数は1名でした。
 また、僕は結婚していますが、妻のパートナーになれるのは1人でだけです。
 のろけや自慢ではありませんが『何かになりたい』と思ったときに、
 倍率とか確率とかを恐れずにチャレンジしなければいけない岐路は、
 誰にでも必ず来ます。そのときどう思うか。
 そこが人生の分かれ目です。勝ち負けではありません。
 勝ったか負けたかなんていうのは、『あいだみつをさん』ではありませんが、
 自分の価値観です。真価は、わかる人にはわかります。」

最近、この「折り合いをつける」という言葉がキーワードかな、と思います。
モンスターピアレントという言葉が流行していますが、
保護者に限らず、『これが正論でしょう!』と(根源は怪しいですが)、
なにか筋を通そうとして、
自分のやりたいようにやろうとしている大人が多い、ように思います。
世知辛い世の中です。
でもおそらく昔から、正論(ときには暴論)を唱える人は多かったでしょう。
でもそれでもやってこられたのは、
『折り合いを付ける』ことが出来た、
『折り合いを付ける文化』があったからでは、
と思います。

生徒たちは、「KY」という言葉をよく使います。
私はこの言葉が、嫌いで嫌いで仕方ないのですが、
実は使ってます。いかにもわざとらしく。
生徒にも「KYって言葉が大嫌いなんだ」とさんざん言ってます。
にも関わらず、
「○○くん、この空気(文脈や題意)、読んでね。」
と言います。
生徒は瞬間、大爆笑ですが、
そのうちに笑いが消えます。
それは僕が真顔で言っているからです。
『コミュニケーション』という言葉も流布して十数年経ちますが、
こういう言葉が流行るということは、
それが必要となったからだと思います。

子ども達は授業中、別のことを考えているようです。
「何か質問ありますか?」
と授業中、3回は言うようにしています。
誰も質問をしませんが、
授業後、「質問がある」と生徒が数名来ます。
すると、何を質問するのだろうと、他の生徒もよってきます。
私は廊下から教室に戻り、黒板に図を書いたりして、
質問に答えます。すると、
「俺もそこがわからなかった。」という声が聞こえてきます。
「だったら質問すればいいのに。」
「いや、質問して『そんなこともわからないのか』と言われないか、
 心配で質問できません。先生に『空気読め!』と言われるかあと。」
「逆だよ。それこそ、空気読め。
 みんな、
 『いまのところわからないなあ。誰か、質問しないかなあ』、
 と思ってるんだよ。
 俺が『なんだ、その質問は!』って怒ったことあったか?
 質問はしてほしいんだよ。
 ちなみに、高校生はするよ。」

先生は生徒や保護者、同僚と折り合いをつけて、
仕事をやっていかなければなりません。
生徒もいろいろな人と折り合いを付けなければやっていけないでしょう。
自分の人生も、住所や学力、学費などと
折り合いを付けてやっていかなければなりません。

よりよい明日の自分のために、
ときにはそれは妥協と言われるかもしれませんが、
自分の心や他者の心と折り合いをつけましょう。
それを教えてくれるのが学校かな、と思います。