小学生の頃、
「学歴で人間が評価される世の中はよくない」と教わった気がするが、
現在、私はその学歴社会を再生産する仕事についている。
「仕事に貴賤がないように、大学にも上下はない。」と思ってはいるが。

また、この仕事に就いて知ったことは、
「難易度というのは塾・予備校の評価」ということである。
社会の認知度や評価は、必ずしも予備校の評価の通りではなく、
またあのようにめまぐるしく変化するのもではない。
しかしながら、受験生やその保護者にしてみれば、
大手の塾・予備校の設定する偏差値や難易度以外に、
「自分が受かるか・受からないのか」ということを予測する手だてがない、
というのも事実である。
結局、受験生もそれを受け入れるこちらも(大学もそうだと思うが)、
そこのあたりとうまく「折り合い」をつけていかねばならないのである。

先日、出張で行く際に週刊誌を買った。
このブログで批判している、
大学合格ランキングなんかを垂れ流している雑誌である。
理由は出身校の名前が乗っていたからである。

実は、妻には内緒だが、小遣いの一部を少しずつ寄付している。
自分もそうであったが、苦学生の足しの一部にでもなればと思っているからだ。
本校の卒業生も通う、「母校」。
今の自分がこの職場に勤めることができたのは、
やはり半分は出身校の名前があったからである。
(残り半分が自分の評価だと思ってはいるが。)

大学時代のことは回想したくないくらい、
多くのあやまちや悔いが残っている。
一番の悔いは、
「何で、もっと数学の勉強をしなかったのか」
ということであるが。
一方で、大学に対する恨みもある。
私立ゆえなのか、あの大規模教室での講義はちょっといただけない。
また事務の人の対応も不親切だった。
先日、ちょっと大学の様子をのぞきに行ったら、
書類の発行は自動になっていた。
もしあのころも自動だったらなら、
私も何も、事務室のドアを蹴ったりすることはなかった。
読みにくい、受け手側にたっていない要項の数々。
アドバイスが的確でない、アドバイザー役の院生。
ああ、ちょっと思い出すだけでも腹が立つ。
それでも大学には世話になったと感じてる。
失敗ばかりだったが、あのとき考えたこと・感じたことは、
今の自分の根幹になっている。

雑誌や大学から送られてくる会報を読む限り、
大学も学生の立場に立ったような改革をしているようである。
雑誌によれば、
「私立大学はブランド力を高めないと生き残れない」
そうだが、大学を含め学校のブランド力というのは、
どう突き詰めても、
個々の学生(主に現役の学生。大きな意味では卒業生)である。
このことを忘れないで、
よりいい大学になってほしい、と願っている。

こういった反面的な態度も母校に対する愛ならば、
私も立派な学歴主義者である。
そうであるならば仕方ない。
生徒にも、「より、いい大学に通うようなってほしい」と、
伝わってしまうだろう。また再生産である。