昨年の10月から2ヶ月ほど四国のお寺をめぐるお遍路歩きをしました。
自分にとって歩くことはとてもワクワクすることです。
同時に、自分と対峙する貴重な時間になりました。
序盤から中盤は、比較的他のお遍路さんと会う機会が多くありました。
特に外国のお遍路さんが多く歩いていました。
はじめのうちは、色々と戸惑っている彼らの手伝いをしながら歩くことが多くなりました。
次第に彼らから、"優しく色々と助けてくれる” と褒められるようになりました。
そんなふうに持ち上げられることで、いつの間にかいい気になってしまいました。
普段は自信のない自分が、些細なことで褒められると簡単にいい気なってしまいます。
”優しい人” という仮面を被ってしまっていたようです。
次第に、そんなことでいい気になる自分にうんざりしました。
それは自信のなさの裏返しであり、自己肯定感の欠如でした。
同じようなパターンをこれまで幾度となく繰り返してきたのだと思います。
ただいい気になって、何も成長しないそんな自分の姿が浮かび上がりました。
このような巡礼路では自分の持っているパターンや癖が凝縮して現れます。
日々歩く中で、それまでの人生のさまざまな出来事が浮上してきます。
つらかったこと、うまくいかなかったこと、人を傷つけてしまったこと。
同じ出来事を異なる視点で振り返る機会。
自分が対峙してきた状況を、相手側の立場になって振り返ることも多くありました。
多く場合は、自分の自信のなさであったり被害者意識が摩擦を引き起こしていました。
特に大きなものは、不機嫌な態度をとってしまい、それによって自分の気持ちを察してもらおうとする癖でした。
それは大いなる甘えであり、大切な人を傷つけてしまうもの。
さまざまな癖やパターンが、自分というエゴの中に散りばめられていました。
エゴは自分自身を欺こうとするので、つぎつぎと言い訳や正当化する理由を作り上げて、パターンを存続させようとします。
とても醜い自分。
その醜さから目を背けずに対峙しなければなりませんでした。
はじめは、ひたすら自分を責め、後悔して、自分を否定します。
とても辛い時間でしたが、それでは堂々巡りするだけでした。
そんなパターンを持っている自分というものを、批判をしないで受け入れることが、堂々巡りから抜け出す唯一の手段でした。
良くも悪くも、それしかできることがないようです。
自分のパターンに常に気がつき受け入れて、常に気づきという光で照らし続けていくことによって、変容をもたらすことができるのだと思います。

こんなプロセスを辿る中で、もうひとつのエゴの仮面にも気がつきました。
それはとても見抜くのが難しいのですが、”自分と向かい合っている自分”という仮面をかぶって、やはり自分を正当化するというパターンでした。
逆説的なのですが、自分と向かい合うという仮面をかぶることで、ある種の免罪符を得てしまい、結局同じパターンを繰り返してしまうのです。
このパターンに気がつくだけでも、エゴの仮面は緩んで行くようです。
少しずつ少しずつエゴのトリックに気がついてそれを見つめていく。
地道なプロセスの繰り返しによって、ゆっくりだけど着実に自己と対峙することができました。

かつて、特に江戸時代までは四国遍路はとても過酷な巡礼路だったようで、お遍路中に命を落とす人もいたのだそうです。
現在のお遍路は、コンビニや道の駅、民宿などもあり、物理的にはとても安全で死の危険に遭うようなことはありません。
ですが道中に自己と対峙することによって、象徴的なエゴの死を迎えることはできるのかもしれません。
これまでのエゴに感謝しつつ、あらたに生まれ変わっていく。