前回の続きです。暗い話になるかもしれません。
病院を出た後は久しぶりに友達の家に顔を出しました。と、言っても、その友達は17年前に他界しました。だから、友達のご両親に逢いに行ってきましたと言ったほうがいいかな。
家へ行くと、なぜかお父さんしかおらず、人の気配がない。「ん?、なんだこの雰囲気は」と思っていたら、後々、話を聞いていくと離婚をされたそうです。
まあ、俺から言わせると、両親共々いつまでも若いんだもん。お父さんは60手前なのに、未だにジーンズを履いているし。髪の毛も白髪が混じっているけど、茶色に染め、センター分け。そんな50代なかなかいないって。
お母さんも最後に逢ったのは6年前だけど、ネックレスをして化粧は濃すぎず、ナチュラルに決めていた人だった。なんか、俺から見れば、二人共結婚して友達を含め、子供が三人いるのに、まだそれぞれが男のオーラ、女のオーラを出しているのね。それだったら確かに離婚してもおかしくないかも。
お父さんは子供が嫁いで、お父さんの母親は認知症のため、グループホームに入居して、一人で寂しいからネット関連で知り合った人と付き合っているらしい。すごいね。60手前だよ。どれだけ、文明の利器に慣れ、体力があってそれができるのか。
で、当然、俺の話になり、「結婚は?」って聞かれたけど(笑)「まだ若いんだから、ガンガン行かんと」って、かなり責められたので(笑)、お返しに「では、お父さん、単刀直入に聞きます。結婚って幸せですか?」と聞いたら、「その結果がこれやん(笑)」と返された。
「なるほど、結果が目の前に見えているので一番わかりやすい」って、まあ、それは言わなかったけど(笑)そんな話を30分ぐらいして、お父さんの都合があったので帰りました。
楽しかったけど、やはり、毎回思うのはその友達が生きていたらなあということです。彼は入院仲間でした。子供病院ということもあって、同じ歳の人はあまりいなかったんだけど、唯一、彼だけが同級生でした。
最初に逢ったのは中学2年の時で、あまり気が合わなくてしょっちゅう喧嘩ばかりしていたのかな。殴り合いではないけど。でも、時々、気を使ってくれるいいやつでした。昼ごはんのお膳を下げに行くときも「持っていこうか?」と言ってくれる。
ここで一番言いたいのは、普通は「持っていったろか(持っていってやろうか)?」と、ちょっと上からの目線で言うじゃない?でも、彼はそんな言い方をしなかった。徐々に親しくなり、お互いの入院部屋にも行くようになった。二人で似たようなことでキレて愚痴を言い合う。そんな仲になっていった。
中学3年で俺は退院するんだけど、彼は入退院の繰り返しだった。高校2年で俺は再び入院。その時に彼はいなかったんだけど。数週間後に緊急入院をしてきて再び一緒になった。当時、俺は黒夢の『NITE&DAY』という曲をラジオで聞いて、一目惚れ。
でも、入院しているから、CDも買いに行けないし、カセットテープに録音もできない。でも、当時、彼はMDにその曲が入っていて、俺が彼の入院部屋へ行くたびに、「聴くか?」と言って、曲をかけてくれた。彼もその時には聴きたい曲があっただろうけど、俺のために何度もその曲をかけてくれた。あの優しさは今でも忘れない。そして、その曲は俺にとって本当に思い出の曲になりました。
その3ヶ月後、彼は骨髄移植をするために名古屋へ転院。半年ぐらいで戻ってくるという言葉を信じて待っていた。だが、半年経っても彼は戻ってこなかった。彼が転院してから9ヶ月後、俺ともう一人、共通の友達がいたんだけど、その二人が当時の主任看護師に消灯後の21時に呼ばれた。その時に亡くなったことを知り、俺とその共通の友達は二人でその夜、泣いた。
翌日、お通夜の前に俺、共通の友達、主任看護師、俺の担当の看護師、彼の担当だった看護師、この5人で彼の実家に行った。家に入ると、そこにはステロイドで顔がパンパンになり、更に色白になった彼が寝ていた。
「おい!起きろよ!」俺は何度もそう言いかけた。転院してから以降の話を両親がしてくれた。だが、専門的な言葉が多くて、当時の俺にはさっぱり理解ができなかった。
ただひとつ、美空ひばりさんと同じ間質性肺炎にかかったことだけは理解できた。今はどうか知らないけど、当時、間質性肺炎は不治の病だった。その病気にかかったことを医師から告げられた時は、両親はかなり取り乱したとのことだった。
話が終わり、そこに寝ている彼に最後の別れを告げなければならなくなった。その時に、俺は人生で初めての大号泣をして、「おまえは俺のためになんでもしてくれたのに、俺はおまえに何もできなくて本当にごめん」と、土下座しながら言った。それから、俺は悔しくても、辛くても、寂しくても、あれ以上は泣かない、と心に決めた。
すいません、暗い話を長々としてしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝いたします。