4年前に書いたツイートがリブログ対象として挙がってきていました。

60年経過しても、ウエブチャンネルで、渡邊一久氏が決算前夜の黒崎師範のことを話されていましたし、大山泰彦師範の、空港に見送りに行った際の大山館長も言葉を紹介されていました。

 

それはさておき、対戦4試合説、梶原先生以外にもおられました。

森川哲郎氏の「武道日本 中」(プレス東京 1969)

「数年前、タイ国でに日本の空手家が負けて帰って来たと聞き、四人の弟子を送って、挑戦し,三対一で帰ってくるなど、彼の闘志は、ますます磨ぎすまされている。」

 

決戦から5年くらいなのにこの情報ソースは何だったのでしょうかね

 

1964年(昭和39年)2月12日 タイ、ルンピニースタジアムでの3対3決戦。キックボクシングの歴史を語る上で重要な試合ですが、基本的な情報が正しく伝えられていません。

 

ます昭和38年(1963年)とされている文献が数多く存在します。

一番の要因は、黒崎健時先生の「必死の力、必死の心(スポーツライフ社)」にあると思っています。「翌三十八年の二月、野口氏とバンコクに向かったのは、私と大沢昇と中村忠の三人であった」とあります。まだこの時は藤平氏は”大沢昇”を名乗ってはいなかったと思いますが、氏には大沢昇の方が通りがよかったのでしょう。

試合順についても、見慣れないムエタイとの闘い方を見せるため、黒崎氏が一番手をかってでたような感動的な話になっていますが、実際は、中村、黒崎、藤平の順であることが多くの資料で明示されています。黒崎氏の対戦相手は、発音と表記の問題ですが、”フビー・カチャチャック”となっています。

 

ゴングで刊行された「大いなる挑戦」のビデオパッケージでも昭和38年と書かれていますし、ビデオ内の舟木昭太郎氏も昭和38年とコメントされています。この時からでしょうか 対戦相手はラウイー・デンチャーチャイと表記されるようになりました。

「ゴング格闘技」1992年12月号「誰もか書かなかったムエタイ」の特集「初めて明かされる史上初のカラテVSムエタイ 決戦の真相!黒崎健時師範とラウイーが30年ぶりに再会」の写真キャプションでも「’63年2月12日、ラウイーの凶器ヒジ打ちが黒崎師範の頭部を襲った」とあるとおり、「ゴング」では昭和38年(1963年)が定説となり、改めて確認するということはなかったのではないでしょうか?(それにしても、この時製作中のビデオ「必死の力、必死の心」は、どうなってしまったのでしょうかね。結局、陽の目を見ませんでした。)

 

「キックボクシング入門(秋田書店)沢村忠監修 昭和44年8月初版」では、キックボクシングの歴史を扱った本文でも、「昭和38年2月」となっています。ただし、「小さな巨人 大沢昇選手」というコラムでは、「昭和39年に初めてタイ国で空手対タイ式ボクシングの試合をしたときも・・・」と同じ方が書いていない事がまるわかりです。これに続くのが、「ただひとり、死闘の末勝っている。」と先に試合をしてKO勝ちでしている中村忠氏の存在を無視した書き方になっています。

「初めて・・」という部分についてですが、他の方が書籍で書かれているようにムエタイと闘った空手家は実在しました。

 

試合結果については、梶原一騎先生も負けていません。

「キック魂(ガッツ)(漫画:南波健二)」の中で、「結果は・・大山四天王のうち、ひとりはかろうじて勝ったものの、ひとりは引き分け、ふたりは完敗した。」と。

 

漫画ゴラクに連載された「一騎名勝負劇場 第5弾 キック戦国史(劇画:中城健)」では

「1962年 大山は門下四天王と称される中村忠 藤平昭雄 黒崎健時らを率いてタイ遠征しふたたびタイ式と対決」(”ふたたび”とあるのは1953年に大山倍達VSブラック・コブラがあったことを前提にしています。。またこれらの対戦は、大山館長が引率したことになっています。実際は野口修氏でしょう。)

「中村 藤平は勝って2勝2敗」 4人目は誰?

 

一体何を参照されたのでしょうかね。もっとも梶原先生の書かれた原作が間違っているかどうかなんて調べる、ましてや修正を要求するような勇気ある編集者さんはいなかったのかもしれません。

 

「キックボクシング35年史」を謳った「格闘伝説Vol.1」も「’63(昭和38年)年2月12日」説。

 

「キックボクシング入門(ベースボールマガジン社)平成15(2004)年7月」の「振り返ってはいけないキック→K-1 40年史」では「例えば、日本人格闘家とムエタイの初めての遭遇。これまでの定説では、63年2月12日・・・・」と、それ以前の対決の実現をほのめかした表現になっていますが、年が誤っています。

 

「Striking Vol.1(Gun2014年9月号増刊) 」のKick Boxing 50th Anniversaryでは、1964年2月と

試合の年月は合っていますが、キックボクサーの写真の名前の間違っているものが多々あり、もしかしてキックが詳しくないアルバイトが編集を行ったのかと思ってしまいました。
 
ところで極真会館側の記録はどうでしょうか?
「極真年鑑 1979」の極真会館小史によると、1964年1月「日本空手界に対し、タイ式ボクシングが挑戦したが、当時の空手界は邪道としてこれを受けなかったので、大山道場が受けてたった。大沢昇ら3人がバンコクに渡り、3戦中2勝し、日本空手の威信を高めた。」
ひと月違いで惜しい!この時 藤平氏は”大沢昇”を名乗っていないのはさておき、多分に「空手バカ一代」的な表現になっていることは否めません。
この表記が 1984年11月刊行の「巨人大山倍達の肖像(コア出版)」の「大山倍達のあゆみ(極真会館小史1923-1984)」にそのまま引き継がれ、確認できたのは1987年の第4回世界大会パンフレット」までは記載されちました。
 
歴史を記述する方、最低限の確認はやってほしいところです。