日々の積み重ね
今回はスペイン人にとってサッカーはどんな存在なのかについて考えてみたいと思う。
よく聞くフレーズは「スペイン人にとってフットボール(サッカー)は生活の一部そのものだ」というもの。
一般的な解釈は、サッカーが身近なスポーツであり、少し街を歩けばそこらじゅうにサッカーコートを目にすることができる。
またバルセロナ市内のほとんどのカフェやレストランでは、バルサやレアルマドリーが試合をする日は必ず店内のテレビで試合中継を流しているほどサッカーは国民にとってなくてはならないもの。
老若男女問わず、誰もがサッカーを愛し、小さなころから親に連れられ、週末はバルサの試合を観に行くのが日課なほどバルセロナにサッカーは欠かせないものである。
そう。人々にとってサッカーは生活の一部分ありで、生活に欠かせないものなのだ。
しかし私の解釈はフットボールはスペイン人にとって「欠かせないもの」ではなく「日常、日課」。
少年たちは、朝、学校へ行くように、夕方サッカーの練習に出かける。学校の宿題を家でするように、家ではサッカーの放送を見る。週末は家族とどこかへ出かけるのように、毎週のリーグ戦をホーム&アウェイで戦う。
それが彼らにとっては日課なのではないだろうか。
私の所属するチームやカテゴリー(セミプロ)ではそれを顕著に感じ取ることができる。
(プロにとってフットボールは生活の一部ではなく、生活、人生そのものであるから、少し当てはまらない)
選手は皆、日中は仕事を抱えており、夜、仕事が終わってからの練習になる。
そして彼らは、日課のように、いつも仕事に行くようにグラウンドへとやって来る。
子供のころからやってきたように。
また試合において彼らは 「戦う」 ことを知っている。
だがこれも彼らにとっては日常。小さいころから相手と戦ってきたように、今日の試合も来週の試合もいつものように、同じように戦うだけ。
それは試合後もにもいえる。勝っても負けても一喜一憂せず、いつものように勝敗を受け入れている。(もちろん負けて悔しいのは当然だが、必要以上に悔しがることはない)
彼らは試合終了の笛と同時に、すべてをグラウンドに置いてくることを知っている。
つまり笛が鳴ればそこで終わり、どんなに悔しがっても結果はどうにもならない。
だからこそピッチを去る時はピッチにやり残したことのないように必死に戦う。それがその一喜一憂しないという部分につながると思うし、「戦う」 というこではないだろうか。
「ピッチにすべてを置いてくる」
非常に難しいことだが、そのために練習を積み、戦術を学び、試練を超えなければならない。
それができれば勝利を引き寄せることができる。決して怠ることはできない。しかしこれは彼らにとって日常で、特別何かをするということでもなければ、特別意識していることでもないのである。
日本人にはこの「戦う」という部分が苦手である。
練習では一生懸命。試合でも一生懸命だが何か物足りない。それはサッカーが日本人にとって日常ではなく、
小さいときからの試合経験数が圧倒的に違うことや、「戦う」選手を身近に見ることができない、感じることができないといった経験の差などの要因がある。
彼らスペイン人の日々の積み重ねや歴史の積み重ねが、今日のスペインのフットボールシーンのを支えているのは間違いない。
しかしその日常は決して生温いものではなく、激しい戦いを強いられ、日々ライバルとの戦いでもあることを忘れてはならない。
では。