日本人に多い Y染色体ハプロタイプによると、現在の日本人は、

D1b   39% (縄文人 日本固有種、チベットに類似種、韓国1~2%)
O2b1 25%(呉系渡来人比定 韓国12%、朝鮮ほぼ0%)
O3   16%(漢人 中国66%、北朝鮮38%、韓国45%)
O2* 8%(諸族渡来人 北朝鮮36%、韓国17%)
O1a 3%(楚系渡来人比定)
C3 3%(縄文人系統)
C1 2%(縄文人系統)
その他 4%


D1bは、日本固有の系統で、C系統と共に旧石器、縄文期から暮らす先住民です。従来、弥生時代は紀元前3世紀頃から始まったとされてきましたが、現在は、新たな遺跡の発掘で、稲作の伝来も既に縄文期から伝わっていたとするのが定説となっています。

縄文期の代表的な遺跡、青森県 三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、約40ヘクタールの広大なもので、住居・墓・捨て場・大型掘立柱建物・貯蔵穴・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置され、500人程の人々が暮らしていたとも考えられています。

特筆すべきは、自然林で食糧を採取するだけでなく、クリ・クルミ・トチなどの樹木、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなど一年草植物を栽培していた可能性があるという事。そして、黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などの出土から、各地と交易が行われていたという事です。

ヒスイには硬玉と軟玉があり、全く別の鉱物ですが、見た目に区別がつかず、どちらも翡翠と呼ばれています。硬玉は、アジアでは日本とミャンマーしか産出されません。三内丸山遺跡から出土した翡翠は、測定の結果糸魚川産のものであるそうです。黒曜石は伊豆諸島で採取されたものです。三内丸山遺跡を始め、東日本各地の遺跡から出土します。土器の分布では、九州の縄文土器が、奄美大島、沖縄、朝鮮半島南部へ伝播しています。八丈島の遺跡からは、関東・中部・関西の土器が出土しています。

縄文人と呼ばれる人々は、既に漁労に加え外海へも進出、海上ルートで各地と交易を行い、東日本では、クリなどの堅果類や芋などの根茎類、西日本では稲作農耕も始まっていたとするなら、

従来の、稲作や金属器など先進の文化をもたらした渡来弥生人によって、単純に置換られたとする説は誤りで、縄文人は主体的に弥生文化を受け入れていった。その素地があったと考えられます。

もう一点は、海を隔てる地政学的な要因から、渡来人と言っても少数の人間が断続的にやって来たと考えるのが自然です。数に勝る先住民と争わず、共存の道を模索したのでしょう。あるいは先住者の土地を避け、新しい定住先を求めて全国に広がっていったものと考えられます。




三内丸山遺跡 (wiki)


弥生期に流入した者はO2系統が多く、長江流域から、春秋戦国時代の戦火を逃れて、九州北部や朝鮮半島南部に定着したものと考えられます。

「臥薪嘗胆」「呉越同舟」の故事で有名な、中国 春秋時代の呉は、紀元前473年に滅びました。
国を失い、戦火を逃れ日本にやってきた呉の人々がいました。九州でBC450年頃の大規模水田跡が見つかっています。『魏略』に、倭人は「自ら太白(呉の始祖)の後という」とあります。
「呉」の沿岸部に住む人々は、入れ墨をする文化があり、『魏志東夷伝倭人条』などが伝える、黥面文身の倭人風俗と似ています。

長江流域に住む諸部族を「百越」と呼び、呉越や楚の人々です。代表的な部族に苗(ミャオ)族があります。信仰・文化・風俗などが非常に日本人と近いです。

長江流域で暮らしていた苗族は、漢人に追いやられ、雲南省などの奥地に追いやられましたが、その後裔は、米を主食とし、味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。納豆や蕎麦も食べます。自然崇拝、祖先を祭り、銅鼓と呼ばれる青銅で作られた太鼓を祭祀に用います。

新天地を求めた呉の人々は海を渡って来たと思います。自然の脅威というリスクはあるものの、その方が安全だったからです。陸路、朝鮮半島経由で渡来するには、斉や燕という異国の地を通らなければなりません。熱帯ジャポニカ種の稲が、朝鮮半島には伝わっていない事も海路の査証となります。Y染色体ハプロタイプで2番目に多いO2b1の起源となる人々です。

「呉」を滅ぼした「越」も、紀元前334年に「楚」によって滅ぼされます。四散した「越人」の中にも、日本にやってきた人々がいたようです。基本的に長江下流域の「百越」ですから、呉人とも近い関係にあります。O2b1か、O2*の人々だと思います。

「越」を滅ぼした「楚」も、紀元前223年「秦」によって滅ぼされ、秦始皇帝によって中国は統一されます。この「楚」の滅亡によって、渡来してきた人々がいました。O1a系統です。実は、中国地方は他の地域に比べ、O1a系が非常に高い比率となっています(全国では3%ですが、中国地方19%)。

私はO1aを楚人と比定しています。数は少ないですが、古代日本史において無視することの出来ない渡来人です。出雲や吉備に勢力を張り、その後天孫族と覇権をかけて争う事になります。