職貢図(しょくこうず)
『梁職貢図』は、梁の武帝の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭衍が、荊州刺使を務めていた時代に作成されたと伝えられる。原本は紛失しているが、唐の画家閻立本による模本(台湾故宮博物院蔵)、南唐の画家顧徳謙による模本(台湾故宮博物院蔵)、北宋の模本(中国国家博物館蔵)の三種類の模本が現存しているが、いずれも完本ではなく、記事に欠落も多い。しかし、2011年、清朝時代の画家 張庚による『諸番職貢圖巻』が発見され、新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起が新しく見つかった。
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して始めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った、とあります。
画像は6世紀梁職貢図の模写
wikipedia 職貢図
広開土王碑(こうかいどおうひ)
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした、とあります。
碑文の解釈には諸説あり、特に朝鮮半島では、これでは倭の属国となってしまうので、別の見解としているようですが、いずれにしても、 倭が辛卯年(391年)にやってきた ここの解釈は同じです。つまり、勝ったか、負けたかはさておき、攻めてきたということは誰もが認めている事です。
【倭が辛卯年(391年)に新羅に攻め入った】事績に対する日本側の史書として、『記紀』の神功皇后三韓遠征が比定されると私は考えます。
大和政権側の事績として素直に読めば良いと思うのですが、広開土王碑文の解釈以外に、そもそも九州地方の倭人が遠征したものを、大和朝廷が捏造したものであるとか、神功皇后は物語として後世につくられたものだとか、様々に事実ではないとするのです。
しかし、この後、朝鮮半島から多くの渡来人が大和にやってきます。東漢氏(やまとのあやうじ)の祖 阿智使主、秦氏の祖である弓月君、西文氏の祖で論語を伝えたとされる王仁(わに)など。
歴史の試験では、「ワニ、趣味機織り、あっちは東」→「わにしゅみはたおり、あっちはひがし」→「王仁=西文、弓月君=秦、阿知使主=東漢」と覚えるそうです。
いずれも三韓遠征の後、神功摂政・応神朝の出来事です。
この時期より、大和では古墳の副葬品に変化が見られます。大規模な灌漑工事が行われます。大和、山城、河内、近江などには上記渡来氏族の伝承が数えきれないくらい残されています。
神功皇后伝承に水戸黄門漫遊記のような潤色はあったとしても、神功皇后は実在して(あるいは、百歩譲って神功皇后のモデルとなる人物がいて)、歴史がここで大きく動いていったと思います。

