神功皇后の時代(私説で4世紀後半から5世紀 古墳時代中期)には、金属貨幣の鋳造はまだ行われていませんでした。


欲しいものを手に入れる為には、日常的には、物々交換によるか、あるいは米・塩・布などの必需品が物品貨幣の役割をはたしていたと思われます。



一方、魏志東夷伝辰韓伝に、


國出鐵韓濊倭皆従取之諸市買皆用鐵如中国用銭又以供給二郡

「国には鉄が出て、韓、倭がみなこれを取っている。諸市では中国が銭を用いるように鉄を用いて買っている。また、楽浪・帯方の二郡にも供給している」とありますから、3世紀には、交易で鉄を貨幣として使っていたようです。


日本で鋳造通貨がつくられるのは7世紀末になってからです。この時代は交易に鉄が使われていたとしても、やはり一般的には物品貨幣による経済行為だったのでしょう。



何しろこの時代の人々の暮らしや統一国家への成り立ちについてほとんど文献はなく、推測するしかありません。唯一古墳の副葬品から想像できることは、古墳時代前期には銅鏡などの宝器的・呪術的性格の遺物が多く、被葬者が司祭者的な性格をもっていたこと。中期になると鉄製の武器・武具・農工具の埋納が多く見られ、首長の軍事的リーダーとしての性格が強まったこと。後期になると馬具が特徴的で、日本にも馬が入ってきたということです。一方で他の民族にみられる金銀の装飾品の副葬は見られません。



日常の米・布・塩などの物品貨幣以外に、貨幣ではありませんが経済的交換価値のあるものとして、 鉄、鉄製武器・武具・農耕具、須恵器などの製品、それから辰砂(朱砂・丹朱)やヒスイなどが思い浮かびます。


特にヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られるので、縄文時代から交易で珍重されていたようです。5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の遺構から大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)していて、交易で朝鮮半島にも伝播していたことがわかります。ただ、新羅では宝飾として使用されいたようです。日本ではヒスイ製勾玉は宝石としての財産というより司祭に用いる神聖なものでした。


wikipedia ヒスイ勾玉


何が言いたいかと言うと、他民族のように希少金属に経済価値を見さ出さないなら、通貨も無い時代ですから、豪族達の富の蓄積という意味において、他を圧倒するような財力を持ったものがまだ現れないのではないかとふと考えたからです。



話は変わって、ちょっとおさらいですが、ヤマト政権の特徴は、律令制が始まるまでは「氏姓制度」と「部民制」でした。


この時代の豪族は「氏」とよばれる血縁的共同体からなっていました。氏は共通の祖先を持つと考えていて、現在の我々の名字をのようなもの。一族の統率者が氏上、構成員が氏人。氏上は一族の「氏神」を祀る役割も持っていました。「姓」は大王から与えられた社会的地位を表す称号で、現在の「姓名」とは意味が違います。


ヤマト政権の有力豪族は「臣(おみ)」や、「連(むらじ)」という姓を与えられました。例えば物部氏や大伴氏は軍事のプロという特殊職能で臣や連を与えられ朝廷に奉仕した氏族です。また、ヤマト王権は服属した地方豪族に「国造(くにのみやつこ)」や「県主(あがたぬし)」という役職を与えて地方を支配させました。しかしこの「国造」や「県主」というのは姓ではなく、姓はあくまでも「君」や「直」というのがややこしいところです。


後の公地公民に対して、この頃は「私地私民」と言われます。

豪族は、部曲(かきべ=私民)と田荘(たどころ=私地)を所有していました。部曲は移動や主人を変える自由はありませんが、家族を持つ自由はあります。また、品部と呼ばれる主に渡来系の技術民も同様の扱いで、それに対し、奴婢(やつこ)と呼ばれる奴隷民がいて、おおよそ人としての自由は無く、売買の対象でもあったと歴史の教科書にあるそうですが、確かに律令制以降その存在は確認できます。しかし、この当時の事は、卑弥呼の時代に生口(奴隷)を朝献したという3世紀の魏志の記述と、神功皇后が新羅の捕虜を奴婢として連れ帰ったという仲哀紀の記述があるだけだと思います。実態はわかりません。


余談ですが、こういう部分だけは『記紀』の記述を取り上げて、それが史実のような書き方をする一方で、神功皇后は存在しなかった、三韓征伐は架空の物語だとするのは、如何なものかと私は思います。