大阪市平野区喜連にある楯原神社を訪れました。

ご由緒には、仲哀天応の皇后 息長帯女命が三韓御親征の時、お告げを伝えたところ、軍事がうまく行ったので、摂政は住吉御幸の時、楯の御前社と鉾の御前社の神籬を立てて祭られました。皇后は楯の御前社と鉾の御前社に参拝し、その折、楯の御前社を改め、二柱の大神を楯原神宮と称し奉ることを奉告されました、とあります。


こちらの盾原神社を調べていると、『北村某の家記』というものの存在を知りました。

大正期の大阪府全志に記載されているものがあります。北村家は息長氏の後裔という事で興味深いです。 http://okinaga.take1mg.com/newpage11.htm



また、こちらの神社に祭られていると言う十種神宝(とくさのかんだから)。饒速日命(にぎはやひのみこと)が天降りする際に、天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとするものです。

真偽のほどは下記由緒を読んで各自ご判断ください。


十種瑞津の宝の当地に鎮座ましますに至る由来は其の昔永禄年間室町幕府の末期足利義昭が織田信長に奉ぜられて入京、そして永禄十一年十月十八日征夷大将軍に任ぜられ室町幕府第十五代将軍となった。

然れどもすぐにその権力はなく信長の力にたよらねば何事も出来なかった。しかし義昭は将軍となるや大和の法隆寺、石神神宮、山城の大徳寺、紀州の根来寺、摂州の本願寺など畿内の主な社寺や有力な大名に呼びかけて味方につけようとした為に、当然信長と衝突した。かくするうちに天正元年義昭は公然と武田、浅井、朝倉、本願寺などと手を組み信長討伐にのりだした。


しかし信長はたちまち反撃に出てそれをおさえた。それ時、天正元年八月石上神宮も織田の武将達の焼打にあひ財宝はうばわれ十種瑞津神宝は持ち去られた。その後、天正十年信長は、本能寺に明智光秀に討れ、光秀又、豊富秀吉の為、山崎合戦に破れ天正十三年秀吉天下を取るに至る。


石上神宮の神宝、十種瑞津の神宝は心ある士に守られて保護されていた。秀吉その士に十種瑞津神宝の話を聞き餘りの有難さと現実の因果におどろき十種瑞津の神宝を生魂の森深く永久に鎮まりませと納め奉った。

時は流れ徳川幕府も終わりの討幕運動が大詰にはいった慶應三年八月下旬、名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったとのうわさをきっかけに老若男女が気違いのように踊り狂い乱舞は日に夜につづき、はじめは京都、大阪、大津など、近畿地方に行なわれ、次第に日本全国に及んだ。鳴物入りで「ええじゃないか」のはやしをつけた卑俗な唄をうたいながら踊り歩いた。


これはかつての「おかげまいり」にみられた宗教的興奮が倒幕直前の政情不安に乗じて形をかえた。「世なほし」騒動の要素も交っており気にくわぬ地主や富豪の家に踊り込み暴れ廻った。そして暴徒は社寺佛閣にまで押しかけて荒れ狂ひ、生魂の宮もおそれて暴徒のほしいままにされた。


其の時に、神宝瑞津の宝は、二度目の難を受け暴徒に持ち去られて、生魂の森よりお姿が消えた。


其の後、神宝は町の古道具やの店頭にさらされていたのを喜連に住む小林某なる人により発見され、買いもとめてこれを家にて祭れり。後小林氏当地を去るにあたり浅井氏に預け、浅井氏又、この地の旧家増池氏に預けられしが、増池氏敬崇の志厚く永代御灯明料共に神宝を式内楯原神社に奉納と社殿を建立し斎き祭るに至れり。