弥生時代祭司に用いられたとされる銅鐸。銅鐸は近畿を中心に東海以西の各地で出土しています。弥生中期から2世紀頃まで使われていました。

2006年 中国無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸(たく)が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」と報道されました。

銅鐸は稲作農耕の祭りに使われてるものです。稲作の伝来は、以前は朝鮮半島経由で伝わったとされてきましたが、近年DNA分析で、時代が遡り、縄文時代には既に長江下流付近から熱帯ジャポニカ種の稲が伝わっていたと判明しています。その事から、鐸も呉越の渡来人によってもたらされたものと考えられます。

ただ、2世紀以降はどの地域も全く作られなくなってしまいます。そして古墳時代へと移って行くのです。司祭するものが変わるという事は大変重要な意味を持つと思います。



墓の話しに変わりますが、弥生時代後期から墓は、遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)となりました。最初は小規模でしたが、その後規模が大きくなり古墳へとつながっていきます。墳丘墓には地域性が見られますが、古墳は全国的にほぼ同じ形状であり、地域による形状の差異が見られなくなりました。このことは、3世紀中盤を画期として、九州から東日本にわたる統一的な政権が確立したことを示唆するという説があり、私も基本的にそう考えます。


前方後円墳という形は、中韓には見られない日本独自のものです。


3世紀中というと、有名な魏志東夷伝倭人条に書かれている卑弥呼の時代です。弥生時代、銅鐸で豊穣を祈っていた小規模な集落が、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念を行うものを王として、政(まつりごと)を行い、国を治めるように変遷していったわけです。


卑弥呼の時代から5世紀初めまで、中国の歴史文献に倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間を「空白の4世紀」と呼びます。しかしこの時代ヤマト政権が、倭の統一政権として確立していったことは後の歴史で明らかで、古墳に関しても、前方後円墳がヤマト政権の倭国統一と関連していることは明らかだと思います。

奈良には大王クラスの陵墓に、最古級の大和(オオヤマト)古墳群(纒向・柳本・大和の総称)、馬見古墳群、佐紀盾列古墳群などがあります。

古墳群は、ヤマト政権が有力豪族の連合政権という性質から、それぞれの豪族の流れをくむ者が埋葬されていると考えるのが自然です。



神功皇后陵は佐紀盾列古墳群の五社神古墳と宮内庁が治定しています。

私は神功皇后が、4世紀後半から5世紀初頭の人と仮定しているので、五社神古墳の築造年代とも合います。

日本書紀 神功皇后紀に 【冬十月戊午朔壬申、葬狹城盾列陵】とあります。また、書紀には成務天皇も【葬于倭國狹城盾列陵】とあります。ある時期神功皇后陵と成務天皇陵は取り違えられていたようです。

「続日本後紀」に、承和10年(843年)盾列陵で二度にわたって山鳴りがし、雷鳴のようだった。そのような奇異があったので、図録を調べたところ、2基の盾列陵があって、北が神功陵、南が成務陵だと分かったという。

書紀にも書かれており、佐紀盾列陵であることは間違いないのでしょうが、子である応神天皇以降、河内を中心に陵墓が築かれているのに、なぜ皇后は佐紀なのかという素朴な疑問は残ります。

それと成務天皇がなぜ佐紀なのかは不思議でした。


それでひょっとして、成務天皇と同日生まれで、成務朝の大臣。そして景行・成務・仲哀(神功皇后)・応神・仁徳5代の天皇に仕えたとされる、あの人の墓ではないのかと妄想してしまいました。


そう、応神天皇の本当の父親かも知れない武内宿禰です。
神功皇后と武内宿禰が葬られているとするならば納得なのですが。

まぁ、あくまで妄想であって、何の根拠もありません^^;


しかし、なぜ神功皇后が、記紀の記述からは想像しにくい佐紀に葬られているのかについて、後日、息長氏の記事でもう少し迫ってみたいと思います。



この表では五社神古墳は4世紀半ばのようですが、5世紀初頭までの間で正確なことはわかっていません。