皇帝戦士~ビックバン・ベイダー追悼~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

皇帝戦士~ビックバン・ベイダー追悼~

どうも。流星仮面二世です。

さて、皆さんもご存知のように、6月、7月とプロレス界では訃報がありました。かつての名レスラーたちの、こういったニュースを耳にするたび胸の穴が開いてしまったような、本当に悲しい気持ちになってしまいます。我々ファンは思うことしかできませんが、ここで振り返りながら偲んでいきたいと、こう思う次第です。

まず6月ですね。6月18日、ビックバン・ベイダーが亡くなりました。

ベイダーは1955年5月14日生まれ。アメリカ出身です。学生時代はボクシングとアメフトで鳴らし、特にアメフトはセンターのポジションで活躍し、なんと40校もの大学から誘いを受けるほどだったといいます。そしてコロラド大学に進学。卒業後、78年にNFLのロサンゼルス・ラムズですね。こちらにドラフトにて入団します。

しかし入団後は、じつのところ情報がいろいろ出回っていまして不明な点も多いんですが、どうやらヒザのケガでラムズに所属した2年間は試合に出ていなかった、ようなんですね。そのような理由から80年にラムズを解雇になった線が濃いようです(ブログ:MAJIK MIRROR ビッグバン・ベイダーのアメフト歴を調べてみました)

ラムズを解雇されアメフト引退後はプロボクシングのヘビー級で活躍したマイク・ウィーバーのスパーリング・パートナーを務めていたとあります。

マイク・ウィーバーは72年にプロデビューしているアメリカのボクサーです。ウィーバーはモハメド・アリがリングを去りマイク・タイソンが出現する間の時代、ラリー・ホームズの時代に活躍した選手です。出世試合は79年6月にMSGで、まさにこのホームズの持つWBC世界ヘビー級王座に挑戦した試合ですね。この試合は12ラウンドTKO負けにはなりましたが、全盛期のホームズをぐらつかせ、苦戦させるという戦いをし評価をあげました。そして80年3月にジョン・テートの持つWBA世界ヘビー級王座に挑戦した試合では、ラウンドを通し主導権を握られたまま迎えた15ラウンド。誰もがテートの判定勝ちだと思ったその瞬間、得意の左フックで奇跡の大逆転勝利をし世界王者となりました。特に「これだ」という抜きに出た特徴はありませんでしたが、淡々と前に出て粘り強く攻める、ペースが一定している手強さを持ったボクサーでした。

ベイダーはこのウィーバーのスパーリング・パートナーだったということなんですが、アメフトを引退した時期に重ね合わせるとウィーバーが世界王者になる寸前か、世界王者になった直後くらいから、ということになります。しかし、ベイダーがウィーバーのスパーリングパートナーを務めていたという記述が載っているのが日本版のWikipediaしかないので、残念ながら時期に関しての情報はなく、これ以上のことは不明です。ボクシングのヘビー級王者のスパーリング・パートナーですから並のボクシング技術ではなれません。本当にすごいことだと思います。ベイダーはボクサーとしてはどんなタイプだったのか?ウィーバーに聞いてみたいですね。

その後、バーン・ガニアにスカウトされいよいよプロレス界へ。85年1月にAWAでプロレスデビューします。デビュー前後はブラッド・レイガンズの指導を受けていたようです。

プロレスデビュー後、10ヶ月目くらいのベイダー。リングネームはまだ本名のレオン・ホワイトだった

で、おそらく翌年の86年だと思うんですが、AWAでのブルーザー・ブロディとのシングルが当時テレビ東京で放送されていました「世界のプロレス」で放送されました。ボクが初めてベイダーの存在を知ったのはこのときでした。

このときもリングネームは本名のレオン・ホワイトでしたが、すでにあのぶ厚い肉体と黒のロングタイツというスタイルでした。しかし顔つきは、ちょっとウェーブがかかった短髪な髪型に口ひげがあり、オデコが結構上がっていたので、このときかなり老け顔に見えたんですね。なので、まだ日本に紹介されてない中堅レスラーに、こんな人がいたんだな~と、そのときは思いました。

しかし今に思えば、実際には55年5月生まれで85年1月デビューという、このとき30歳くらいにしてまだキャリア1年くらいというレスラーだったわけですよね。そう考えるとデビュー1年くらいからブロディ、そしてハンセンともシングルで戦っていたというベイダーは、初めから"持っていた"レスラーだったのかもしれませんね。

86年4月、WWFに対抗すべくAWAとNWAミッドアトランチック地区がWWFのお膝元、ニュージャージー州メドーランド・ブランダン・バーン・アリーナで行ったビッグマッチでは、ブロディ、ローデス、マグナムTA、ウォリアーズ、ラシアンズと豪華メンバーが揃った中、ハンセンとのAWA世界ヘビー級選手権でメインに大抜擢された。いかにAWAが期待度、可能性をベイダーに見ていたのかがわかる

その後、87年3月、コロラド州デンバーにおいてヨーロッパから遠征してきたオットー・ワンツのCWA世界ヘビー級王座に挑戦。奪取します。自身初となるタイトル奪取後はリングネームをブル・パワーに変更しヨーロッパを転戦するようになります。

CWA世界ヘビー級のベルトを巻くブル・パワー時代のベイダー。この頃になると我々の知っているビッグバン・ベイダーの面影が見える

そして同年末、TPG、たけしプロレス軍団からの刺客として新日本に忽然と姿を現しのがベイダーでした。

87年の12月、イヤーエンドin国技館にてTPG、たけしプロレス軍団からの刺客として初めて日本に登場した。ビートたけし、マサ斎藤と並ぶベイダー。  もう2度と実現することのないショットだ

みなさん重々ご存知の通り、このときはいろいろあってベイダーの実力を測ることはおろか、ベイダーが悪いわけではなかったのですがベイダーがヒンシュクを買ってしまう結果となってしまいましたよね。翌88年から本格参戦するわけですが、この日の影響からベイダーは、最初はファンからなかなか受け入れられない立場になってしまいました。

翌年の年明けシリーズから本格参戦し圧倒的なパワーと独特のスタイルを発揮するが、始めはベイダーへの歓声は少なかった

しかし試合をする度、その実力が認められ、みるみる人気が上がっていき、すぐに猪木、藤波、長州、武藤、橋本、蝶野らと渡り合う存在となりました。その後、89年4月に東京ドームで行われた格闘衛星☆闘強導夢でのIWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメントでトーナメントを制しIWGPヘビー級王座を初栄冠。名実共に新日本エース外国人となりました。

トーナメントを制し師でもあるブラッド・レイガンズに祝福されるベイダー。これまでに3度王座についている。外国人レスラーとしては最多載冠だ

IWGPを手にしたのち、同年8月にオーストリアでオットー・ワンツから再びCWA世界ヘビー級を奪取すると3ヶ月後の11月のにはメキシコでエル・カネックからUWA世界ヘビー級をも奪取。世界を股に掛け3冠を保持するという離れ業を見せました。

しかし、この当時といえばやはり日本での戦いですね。ベイダーのその妥協ない攻撃スタイルは日本で完成していったとも言えますが、ボクはそれこそ橋本との戦い抜きにしてあり得なかったのではないかなと思います。

本当の意味での“壮絶”があった89年11の後楽園ホールでの4度目のシングルは特に印象深い

妥協という点で他のレスラーと一線を越えていたふたり。正直、対戦相手から懸念されたこともあったかもしれません。しかし、そんなふたりだからこそ、これだけ遠慮なく激しくやりあえたのではないかなと思います。



そして激しかったといえば90年2月10日、スーパーファイトIN闘強導夢でのハンセン戦ですねぇ・・・

言葉いらないですね・・・

理屈や言葉なんか出てこないんですよ。本当に純粋に、ああ!!すげぇ!!とワクワク、ドキドキだけが溢れ出てくる試合でした。幼き日に見たハンセンvsアンドレの田コロのときの興奮が甦りましたねぇ~。あんな前のめりになれる試合には、もう出会えないのかもしれませんね・・・

その後、91年からはWCWに参戦し92年7月にスティングからWCW世界ヘビー級王座を奪取します。日本、ヨーロッパ、メキシコに続き、ついにアメリカでも世界タイトルを手にしました。

そして93年にはまさかのUWFインターナショナルに登場となりました。当時アメリカの二大勢力だったWCWの現役王者の参戦にして、そこれまでプロレスのスタイルで戦ってきたベイダーが格闘技スタイルでどのような戦いを見せるか?注目が集まりました。中でも、やっぱりボクはこれですね~。


高田との夢の対決

真冬の神宮ですね~。ゴングがなって、ベイダーは打撃のオーソドックスの構えで、こう前足に体重を乗せるんですよ。で、そこから打撃なんですよね。やっぱりボクシング経験者なんだなぁと思いました。そして、終盤ではアメフト流のタックルも見せました。これは、これまでの試合では見せたことがありません。戦いにおいて極限になると、人間最初に覚えたもの、最も得意だったものが出ると言いますが、まさしくこれは、その現れ・・・戦いはUWFvsベイダーの異種格闘技戦だったのではないかなと、ボクはそんなことを思いました。

こちらも必見です!!




さて、この戦いのあと、翌94年には高田延彦からプロレスリング世界ヘビー級ベルトをも奪取します。


ついにテーズ・ベルトをも手にした

96年からはWWFに移籍。そして98年から全日本プロレスに参戦。世界最強タッグへはハンセンと組んで大暴れしました。そして99年には田上明から三冠ヘビー級王座を獲得します。


IWGP、UWA、WCW、テーズ・ベルト、三冠!!すごい!!

全日本マット、印象に残っているのはボクは三沢との試合ですね~。一番は99年5月の東京ドームでの試合ですね。試合はもちろんのこと、あのドームの歓声ですよね。技やカウントへの会場の反応がとにかくすごくて、ああ~今、みんなプロレスを見ているんだなぁと・・・新日本の東京ドームでは出せない色でした。本当に思い出深いです。


何もかもが素晴らしかった試合だった。しかし、ふたりとも、もうこの世にいないとは・・・さみしい・・・

2017年4月20日、後楽園ホールでの藤波のデビュー45周年記念ツアーに参加したベイダー。実はボクは、今度ベイダーが来たならこれを被って!!というマスクを、そんなとっておきのマスクを持っていました。しかし、このときはどうしても行くことができない日でした。悔やまれます。無理してでも行けばよかった。本当に残念でなりません。

どの試合でも妥協なき攻めで相手と戦い、必ずファンを納得させる。そしてどこの団体に行っても必ず名勝負を生み出しトップを取る。長いプロレスの歴史の中で、ベイダーこそ、わかるひとにはわかる“最後の大物レスラー”だったと、ボクは思っています。

さようならベイダー・・・ありがとう・・・


夢をありがとう・・・