過去ブログメモリアル~ラリアートよ永遠なれ!スタン・ハンセン大特集 第ニ戦~
できるだけ日時と画像を正確に掲載したつもりですが、資料不足によりどうしてもないものや微妙なものがありますが・・・ご了承ください。
○昭和50年10月12日 大阪万博記念公園お祭り広場
ボビー・ジャガーズvsジャイアント馬場 アントン・ヘーシング
馬場さんにチョップを食らう初来日のハンセン
ハンセン日本初登場は全日本だったんですねー。
対戦相手のアントン・ヘーシングは東京オリンピックの柔道金メダリストですが、短期間プロレスをやっていたようですね。以前ヘーシング対ドン・レオ・ジョナサンを見たんですが、ヘーシング、プロレスはちょっと・・・
そんなヘーシングの負け役になってしまった当時のハンセンは、まだキャリア1年かそこいらで当時の評価は馬力だけのレスラーとあまりよくなかったようです。
○昭和51年4月26日 ニューヨーク マジソン・スクエア・ガーデン
WWWFヘビー級選手権
vsブルーノ・サンマルチノ
当時ブルーノはニューヨークの英雄で、地元じゃ3歳の子供でも名前を知っているほど。幅広い信者的ファンの支持を集めていました。そんな英雄の首を当時無名のハンセンが折ってしまったことでハンセンとラリアートの名を世界中に轟かしたのがこの試合でした。有名な“首折り事件”の試合であります。
世界に名を広めることになったラリアートだが・・・
実施はラリアートでなくこの投げの失敗で首を負傷させてしまったそうな
とにかく神がかり的な人気のブルーノの首を折ってしまったことで、以降の興行にチケットの払い戻しの発生や、お客の入りに大影響だと関係者からは総スカンされ、ファンには“よくもブルーノを”と、本気でハンセンを仇に殺そうとする者が殺到、社会現象に発展するほどだったそうです。
通常なら追放されるところだがそうならなかったのはブルーノ本人がわざわざプロモーター(現在のWWEのマクマホンの親父)に電話しハンセンをかばい弁護していたからだという。うーん、ブルーノがなんで人気あったのかは正統派という以外にもこういう人柄だったからなのかもしれないですね。
○昭和51年6月26日 ニューヨーク センチュリー・シェア・スタジアム
WWWFヘビー級選手権
vsブルーノ・サンマルチノ
そんなブルーノが2ヶ月間の欠場を経て因縁のハンセンとの再戦となったからこれはファンは大興奮。英雄ブルーノが再起し、憎きハンセンと対決する!その復帰戦は期待しシェア・スタジアムには4万人という当時ではすんごい大勢のファンが集まり会場は埋め尽くされました。
首を折られたリベンジマッチ
結果はハンセンのリングアウトでの試合放棄による負けで、リベンジを果たしたブルーノにはファンも大歓声でしたが・・・表沙汰にはなりませんでしたが試合中ハンセンがラリアートをブルーノに放つと会場にいた老人が失神し、ショックで7人が死亡したという信じられない現象が起きたといいます。 まさにラリアート、恐怖としか言いようがないですね・・・
ちなみにこの日は日本ではアントニオ猪木とモハメド・アリの異種格闘技戦が行われるのを刺激としハンセン対ブルーノの他、アンドレとプロボクサーのチャック・ウエップナーの異種格闘技戦も行われ、また各地で世界タイトル戦も行われこの日は“格闘技オリンピック”と言われたそうです。
日本で行われた猪木・アリ戦と同日開催であった
さて、そんなニューヨークから日本へと主戦場を移したハンセンの初期の名勝負といえばアントニオ猪木との試合に他なりません。その名勝負数あれど、おれはこの2試合を上げたいと思います。
ひとつはハンセンが猪木に勝ってタイトルを奪取したこのNWFヘビー級選手権。
○昭和55年2月8日 東京体育館
NWFヘビー級選手権
vsアントニオ猪木
まさに横殴り!!
とにかく、このエプロンで放ったラリアートが凄かった!!この試合DVDで持ってるんだけど、首っていうより横から側頭部を猛ダッシュしてぶん殴りラリアート!!本気でやばいんじゃないかというくらい強烈な一撃でした。あんなの普通の人やられたら間違いなく死んじゃいますよ・・・やっぱり真似のできない必殺技です。
で、もうひとつはこれ。
○昭和56年4月23日 蔵前国技館
NWFヘビー級選手権
vsアントニオ猪木
IWGP開催に向け最後のNWF戦で・・・
猪木・ハンセンというと広島の逆ラリアートを名勝負としてあげる人は多いですが、おれはこの最後のNWF戦をあげたいです。これはリアルで覚えてるんですよ。試合自体はそんなに覚えていないんだけど、試合終了後にハンセンが猪木に手を差し出して・・・ハンセンって試合終わるとだいたいサーっと帰っちゃうか、会場内で暴れながら帰っちゃうから・・・そんなハンセンが
「ああ、ハンセンが握手する!」
って、びっくりした思い出があります。ちなみにこの試合では猪木はガウン、ハンセンはカウ・ボーイ・ハットを賭けて戦っています。なんか男と男の勝負って感じでよかったなぁ。
○昭和56年4月23日 後楽園ホール
第4回MSGシリーズ公式戦
vsハルク・ホーガン
みんな日米レスリング・サミットでの試合が印象的だと思うんだけど、この時期、実はもうシングルが行われていたんですね。
映像がないのが残念!!
当時のタッグパートナー同士が対決ってのがすごいし、ふたりとも若くパワフルでとってもいい時期だったのにもかかわらず、不思議なことにテレビ中継はないわ、会場も小さいわ・・・後世ビデオ化なんかもされていない。もったいないですね・・・当時の新日本ってこういう対戦をなんの迷いもなくひょいっとやっちゃってたからすごかったですよね。
○昭和56年6月24日 蔵前国技館
アブドーラ・ザ・ブッチャーvsアントニオ猪木 谷津嘉章
モスクワ五輪レスリング幻の日本代表の谷津嘉章のデビュー戦にしてブッチャー新日初登場の試合にしてハンセンと初タッグという話題満載な試合。これもリアルで覚えていますね。新聞のテレビ欄でハンセン、ブッチャーって書いてあって・・・うれしくて家族にそれを言ったんだけど
「そんなわけあんめぇ」
と軽く一蹴されて・・・
当時は谷津嘉章がなんだったのかがわからなかったので、試合前にハンセン、ブッチャーの控え室の様子かなんかが映し出されて“ホントにタッグ組むんだぁー!”って、その辺に見入ってました。
強力コンビに谷津はボコボコにされてしまった
ちなみにこの頃は全日本と新日本の外人引き抜きが激化していた頃というのが大きく影響し、ホントはハンセン、シン組と猪木、ダスティ・ローデスだったんだけど諸事情でこの試合になったんだそうな。当時は幼なくてわからなかったけど、プロレス界は複雑だったみたいです。
○昭和56年9月23日 田園コロシアム
vsアンドレ・ザ・ジャイアント
全スポーツを通し、今まで見た中で生涯最高の名勝負を上げろと言われたらこれ!!これしかないよー!!まったくプロレスを知らない人にプロレスの試合ってどんなのですか?と聞かれたらこれを見せれば説明はいらないくらい、すごいです!!
これほどの試合はもうない!!
昭和56年と言えば8歳のときだが、今でもよーく覚えています。というか忘れるはずがないです!!入場シーンで突っかかって行ったハンセンにロープをまたぎながらのアンドレのキック!258キロのアンドレの巨体をボディスラムで完全に投げきったハンセン!あのときの古舘伊知郎の
「世界で5人目!!」
という実況!そしてなんといっても!アンドレの18文キックをかわしジャンプしながら打ったハンセンのラリアート!場外まで吹っ飛ぶアンドレ!最高だー!!!!!四の五の言いません。見てくれ!!
○昭和56年12月 蔵前国技館
MSGタッグリーグ開催記念 3大スペシャル・ドリームマッチ
ローランド・ボックvsアントニオ猪木 藤波辰巳
昭和53年に猪木が欧州に遠征、各地をサーキットしたがこのとき猪木に何もさせず勝った男として“幻の強豪”といわれ続けていたボックが登場。ハンセンと異色のタッグを結成しました。
写真見つけるの大変だった・・・
試合は以前、見たんですが、暗黙のルールを平気で破るボックの試合スタイルは他の選手に比べるとやっぱり異質かな・・・でもタッグということでハンセンとなんとか連携プレーしようとがんばってたけど、やっぱりついていけてなかったような気がします。ハンセンも組みづらい相手だと思ったんじゃないかなと・・・思いました。
そしてこの2日後ハンセンはディック・マードックと組み猪木、藤波組と試合し新日本から全日本へ移籍します。
○昭和57年2月4日 東京体育館
PWFヘビー級選手権
vsジャイアント馬場
昭和56年暮れ最強タッグの優勝戦。ブルーザー・ブロディ・ジミー・スヌーカ組のセコンドで登場し姿を見せたとき
「あ!!スタン・ハンセンだ!!」
という倉持アナウンサーの実況第一声と、そして試合後、負けたテリー・ファンクを痛めつけるハンセンに突っかかりチョップを叩き込んだジャイアント馬場が忘れられない・・・ああハンセンが、全日本のマットで、馬場さんと戦っている!!
そして迎えたこのシングル初対決でした。
これもよかった
あのハンセンに・・・正直、馬場が勝てるはずない!おれは思いながら見ていた。しかし試合早々放った16文にあのアンドレ戦以来の興奮が少年の日のおれに舞い降りてきました。馬場さん・・・こんなにスゴかったのか!!
ハンセンとの試合たくさんあれど、馬場とハンセンのベストはこの初対決だと思います!
○昭和58年4月14日 大阪府立体育館
特別試合
vsテリーファンク
テキサスの化石になれ!
この頃、テリーの人気は凄かったが、おれはテリーが大嫌いでした。大げさだし、見ていてぜんぜんおもしろくないし、やられてばっかりだったし・・・正直なんで人気があるのかがわからなかったんです。だからハンセンに、はやくやっつけて欲しかったんですよ。でもやられながら立ち向かっていくテリーに、あの
「テリーやめてくれ!!」
という、これまた倉持アナウンサーの実況にちょっとおおっ!っとなりましたね。
○昭和58年4月28日 京都府立体育館
83グランドチャンピオンカーニバルPART1
タッグリーグ・リマッチ2回戦
ブルーザー・ブロディvsジャイアント馬場 ジャンボ鶴田
とにかくハンセン、ブロディ、動きがよかったですねー!!それまでのブロディって間をおきながら試合を作っていく感じだったけど、ハンセンと組むことですごいスピーディになって。まさにパワーとスピードのスーパーチームだったなぁ。
このラリアートでジャンボからフォール勝ち
これがミラクルパワーズコンビだ!
連携もすごかったです。おれが好きだったのがダブルのアメフト・タックル。これがかっこよくて学校でプロレスごっこやるときよく真似しました。タックルする前に片手だけ地面につけるんだよね。これがよかったなぁー。思えばこのスタイルのアメフト・タックルってハンセン、ブロディが元祖なんじゃないんですかね?(それともノメリーニが使ったのかな?)
○昭和58年12月5日 福岡国際センター
83世界最強タッグ決定リーグ戦 公式戦
ブルーザー・ブロディvsミル・マスカラス ドス・カラス
これはリアルで覚えています。マスカラスとハンセン、ブロディってどうなるのかなぁーってかなり楽しみに見た思い出があります。
夢の対決
っと・・・そんな感じでしたが、近年になってから、何?これがハンセンにマスカラスがシュートを仕掛けた試合って話題になってYouTubeにもアップされてるんだとか?そんなわけでYouTubeで拝見してみました。話によればあまりにダーティに攻め込んだハンセン、ブロディに怒り、ハンセンの左腕を決めて離さない行為と、試合終了間際にマスカラスとハンセンがもみ合いになるところがあるそうなのですが・・・何度か見たんだけど、左腕の決めの方は正直わかりませんでした。試合終了間際のもみ合いの方はシュートというか・・・試合全体を通してハンセン、ブロディがあまりマスカラスブラザースの技を受けようとしないことが募り、最後にも連携技をジャマしたハンセンに怒り、詰め寄ったように思えたんですが、どうかなぁ?
まあ、なんだかんだ言ってもこの試合、一番シュートだったのは倉持アナウンサーと解説の田鶴浜弘の噛み合わない実況だったんじゃないかなとも思いました。そんな倉持アナウンサーの実況、好きでした。
○昭和59年3月30日 茨城県古河市立体育館
PWFヘビー級選手権
vsバグジー・マグロー
これはねー、バグジー・マグロー?誰?って思うかもしれないですが、おれには思い出に残っているんです。いや地元茨城でやったからというわけでもないんです。これはレアなんですよ。ハンセンはこの6日前、馬場さんと試合をし徹底したラリアート封じとして左腕を攻撃され腕を痛めていたんですね。で、その状態で・・・確か包帯だかテーピングだかで痛々しい左腕だったような感じでこの試合に登場したんですよ。ここで少年ファンのおれは思ったわけなんですね。
「ハンセン左腕痛めててラリアートはどうするんだろう・・・」
って・・・でもそんな心配をよそにハンセン、右腕でラリアートをやったんです。
これが伝説の右腕ラリアート!!
往年のハンセンはときおり右腕ラリアートを使っていたようですが、この時代に左腕でなくラリアートしたのはこのときだけでした。おそらくこれが右腕ラリアートは初公開だったのでは・・・!?
そんなわけですごく印象に残っています。
○昭和59年12月5日 熊本市体育館
84世界最強タッグ決定リーグ戦 公式戦
ブルーザー・ブロディvsダイナマイト・キッド ディビーボーイ・スミス
これも夢の対決だなぁ
これはねー、この年、すごかったですね。まずヌメリ(※1)と賭けをしたんですよ。キッド、スミスは暮れの新日本のタッグリーグに来る、来ないで。おれはキッド、スミスはジュニアヘビーだから来ないと言い、ヌメリはとそんなことはない、来る!と言い・・・期待が高まったわけですな。で、来た!でも新日本じゃなかった!これはぁーびっくりだぁ!!
ファンの間で語り草なキッド、スミスの全日本電撃移籍の年。そしてミラクルパワーズコンビが日本で最後のタッグの年。このすれ違いな現象の中、おれの中では夢のまた夢な対決が行われたんですね・・・
でもこれは契約問題かなんかでテレビはやらなかったと思います。雑誌で読んだだけだったと思うな。見たかったなぁー・・・
○昭和60年9月2日 フロリダ州タンパ ユニバーシティ・オブ・サウス・フロリダ サン・ドーム
AWA認定世界タッグ選手権試合
ハリー・レイスvsザ・ロード・ウォリアーズ
あの当時、誰でも思った。ハンセン、ブロディとウォリアーズ、どっちが強いのかなって・・・そんな夢はついに実現しなかったけどハンセンだけはウォリアーズと戦っています。これは“世界のプロレスで放送されました。
ハンセンの腕だってすごい太いのにアニマルの腕はなんて太さだ!!
試合は、すごい早い展開で流れていきました。ハンセンはカウ・ベルでホークをぶん殴り流血させ、アニマルとも真っ向勝負していました。お互い意識しまくっていたのか、ウォリアーズふたりがハンセンに常に突っかかっていたのでハンセンがひとりで相手していたような感じでした。パワーとパワーのぶつかり合い・・・すごくおもしろかったなぁ。
余談だけど素でケンカしたらレイスはハンパじゃなく強かったそうです。当時アメリカじゃチャンピオンは、おまえ強いのか?って絡まれることが多かったらしいから・・・そんなときのためにレイスみたいな人がチャンピオンだったら安心だったんだと思います。だからNWA王者に7度も君臨することができたんだと思いますね。
○昭和62年11月22日 後楽園ホール
87世界最強タッグ決定リーグ戦 公式戦
テリー・ゴディvsブルーザー・ブロディ ジミー・スヌーカ
新日本から戻ってきたブロディが暮れの最強タッグに登場すると聞いて、またハンセンとのタッグが見れると思ったんだけど・・・ふたりとも組まずに参加したのです。それは、つまり対決するってことか!!これは興奮しました。
試合はすごかったです。ファースト・コンタクトでハンセンがラリアート!かわしてブロディがキングコング・キック!それもかわしてお互い体当たりで場外に吹っ飛ぶ!!久々にパワーとパワーのぶつかり合いというのを見た気がしました。
まさかふたりが対決するとは!!
馬場の構想ではシングルも考えていたそうですが、それはついに叶いませんでした。ふたりが日本マットで最初で最後に戦った夢の試合です。
○平成2年2月10日 東京ドーム
IWGPヘビー級選手権
vsビッグバン・ベイダー
これは、ただただすごかったですねー!!
ケンカ・マッチ!!
あの頃絶対に対決するはずもないふたりがまさかの対決!!しかもすごい殴り合い!ベイダーはこのときマスクを被っていたんだけどハンセンの攻撃で目が腫れ完全に目が塞がってしまい試合途中でジャマだとばかりにマスクを脱ぐ!このときゲストだった今はなき田代マーシーが
「ベイダーやる気ですよね」
みたいな事を言ったらホント、そこからパンチの連打!これでハンセンは鼻の骨を折ったそうです。目に鼻・・・お互い顔を潰しながら、でも一歩も譲らないぶん殴りあい!ラリアートも打ち合い!アンドレ戦以来の興奮が蘇ってきたすごい対決でした。
○平成2年4月13日 東京ドーム
日米レスリング・サミット
vsハルク・ホーガン
奇跡の対決
これも壮絶でしたねー!!ハンセンがフォール負けってのはちょっと残念だったけど、ベイダー戦ほどではなかったけど、これもお互い流血しながらのぶつかり合いですごかったですね!アメリカじゃ見せないようなホーガンのファイトスタイルもよかったなぁ。
○平成12年10月21日 愛知県体育館
三冠ヘビー級王座決定トーナメント
vs天龍源一郎
ハンセンが最後にラリアートを使った試合
かつて激戦を繰り返したふたり・・・ハンセン、ブロディ時代にはいつもチームの穴とし負けていました。しかし時代と共に追いつき、ときには失神させたこともありました。タッグを組んだこともありました。そしてお互いに50代になっていました。ハンセンは日本で歩み、そして激戦を繰り返してきた天龍に最後のラリアートをプレゼントしたのではないだろうか・・・そんなことを思いました。
○平成12年10月28日 日本武道館
スティーブ・ウイリアムス ウルフ・ホークフィールドvs渕正信 藤原喜明 ジョニー・スミス
これがファイナル・マッチ
そしてハンセンはリングを去りました。どんな会場でもどんな相手でも妥協なき全力の戦いはハンセンの体に蓄積されていったのです。背骨付近には腫瘍ができ下半身を圧迫、痺れを生みました。ヒザは擦り減り、骨には穴があったといいます。それでもハンセンは戦い続けました。しかしついに・・・ハンセンはリングに上がることができなくなってしまいました。
おれが生まれた年月、1973年1月にデビューし01年まで・・・29年間もハンセンはリングで戦い続けたのです。誰も真似のできないファイトスタイルで、そして誰も真似できないウエスタン・ラリアートで!!ハンセンこそミスタープロレスだった!!そしてもう二度と現れることのない最高のレスラー、ハンセンにウィー!!!!!
(※1)幼馴染のことで、当時のボクのブログではこの名前でした。