過去ブログメモリアル~ラリアートよ永遠なれ!スタン・ハンセン大特集 第一戦~ | 団塊Jrのプロレスファン列伝

過去ブログメモリアル~ラリアートよ永遠なれ!スタン・ハンセン大特集 第一戦~


アントニオ猪木も好きだった。猪木なら格闘技戦を除けば第一回IWGP決勝のハルク・ホーガン戦、そしてやっぱハンセンとの試合だなぁ。


ジャイアント馬場ならPWFでの抗争のピーク、ミズーリ州セントルイス・チェッカードームでやったハリー・レイスとの試合までの流れががおもしろかったが、もう落ち目だった馬場が復活したハンセンとの試合は大興奮だったかなぁ。


そういやハンセンとブロディとのタッグはよかったな・・・あれれ?


振り返ると思い出の名勝負が当時の思い出と共に次から次へと頭をよぎったが・・・いろんな選手の名勝負をピックアップしていき気づくと、そこにはスタン・ハンセンの試合が絶対に入っていた。そうか・・・いつも全開でどんな相手にも自分のスタイルを貫いたあの姿がファンの心に焼きついているんだな・・・


というわけで!最後のプロレス特集は不沈艦スタン・ハンセンスペシャルだ。最後まで読まないヤツはラリアートの餌食にしてやるぜ!!


おれがスタン・ハンセンを知ったのはタイガー・ジェット・シンがアントニオ猪木の対戦相手としてはフェードし、新しい猪木のライバルとしてエース外人として活躍していた頃・・・ちょうどハルク・ホーガンとタッグを組んでいた頃だった。


あの頃ハンセンは不沈艦でなく“ブレーキの壊れたダンプカー”と言われていた。だから不沈艦というのは正直ピンとこなかった。


プロレスラーのキャッチネームは“人間発電所”や“黒い呪術師”なんてのがある。とにかく凄い!という意味で今でこそわかるが正直子供には何が凄いのかってのはわかりずらいものである。不沈艦って言われてもその頃、戦艦がどんなすごいのか?というのはわからないし、だいたい不沈艦の意味がわからなかった。でもおれの実家の裏の山が砕石所だったこともあり、毎日登下校で何台ものダンプカーを見ていたから・・・日々見かけるあのでっかいダンプカーがブレーキ壊れてる!っていう意味のハンセンのキャッチネームは


「あのでっかいダンプが止まらないんだ!!」

と、子供心にもインパクトが伝わったものだった。そしてもっと、なによりインパクトがあったのが必殺技“ウエスタン・ラリアート”である。


今ではラリアットと称されるが本来はラリアートである。意味は“投げ縄”そう、カウ・ボーイが牛を捕らえるときに投げるあの投げ輪の意味である。これに当時新日本のテレビ中継で解説をやっていた東京スポーツの桜井康雄さんがウエスタンと付けウエスタン・ラリアートとなった。技の発祥はフットボーラー時代にハンセンがデフェンスで使っていた得意技だったという(現在はフットボールでは禁止とのこと)


これをプロレスにオリジナルとして持ち込み、後にブルーノ・サンマルチノの首を折ったというところから“首折り魔”と恐れられた。文字通りである。あの頃とにかくハンセンのラリアートは出たが最後だった。食らった相手はしばらく立てないほどの大ダメージを受け、ときには血を吐いたり病院に運ばれるほどの必殺技だったのだ。だからハンセンがロープに相手を振っただけで

「あああ!ラリアートが出る!」

というヒヤヒヤ、ドキドキした気持ちになる。そしてその後、炸裂したときは“あー!!”というダメだーという気持ち・・・相手が寸前でかわせば“あー・・・”という溜息をついてしまうような気持ち・・・


どちらにしても手に汗握るスリリングな展開に、とにかく心拍数が揺るぐほど興奮したものなのである。このようにハンセンのラリアートは対戦相手に起きられないほどのダメージを与えるだけでなく、それを見ているファンにもダメージを与えるほどの技だったのである。必殺技がなぜ必殺技と言われるのか・・・それはハンセンのラリアートがすべてを物語っていると思う。そしてハンセンのラリアート以降、こんな威力のある必殺技は現れていないと思う。だからハンセンこそオリジナルの必殺技を持った最後のプロレスラーだったのではないだろうか・・・

そんなハンセンをおれが生で初めて見たのは中学校のときだった。


近くの会場に全日本が来たのだ。おれはその日が初の全日本プロレス生観戦。この頃は世の中も大変なプロレス・ブームだったから(人気のあまり全日本は放送時間をゴールデンに移行していた時期)おれの同級生、クラスのヤツらもだいぶ見に行った。しかしさすがに会場入りする選手を見ようと当時53800円もしたミノルタAFテレというカメラを購入し持参して、試合開始時間の3時間前から会場前に陣取っているアホはおれだけだった。


会場は早くから選手達が入っていった。馬場はサンマルチノからの友情の証であるキャデラックに乗って来た。鶴田、天龍、輪島も来た。ぞくぞくと会場入りする選手達・・・そんな中、大型の移動バスが会場前に止まった。外人用の移動バスだった。ドアが開きニック・ボックウィンクルの後、カウボーイ・ハットをかぶったあの男が出てきた。ハンセンだ!初めて生で見るハンセンはとにかく大きく、バスからはゆっくりと降りてきた。そしておれのように会場入りする選手を写真に取ろうとする群がるプロレス小僧を見下ろし立ち止まった。これはシャッターチャンス!おれは後方にいたのでなんとか前へと思ったが・・・その瞬間、最前にいた小僧に向かってハンセンはなんと唾を吹きかけたのだ!たじろぐ小僧とおれ・・・そのスキにハンセンは悠々と会場へ入っていった。一見なんてことを・・・と思うかもしれないが唾かけられた小僧とおれは


「おれハンセンに唾かけられちゃったぁー!」


と大喜びしていた。今じゃ考えられないが当時プロレスの価値は高かったのである。ちなみにそのときの写真をここに・・・と思ったんだけど残念ながらどうしても見つからなかった。多分高校時代の寮に置いてきちゃったんだな・・・くー残念。


スタン・ハンセン・・・本名ジョン・スタンリー・ハンセン二世。1949年8月29日、アメリカ・テキサス州ナックシティ出身。ウエスト・テキサス大学でフットボールをし卒業後ボルチモア・コルツに入団。その後中学校の教員を経てプロレスラーになる。よくテリーファンクがスカウトして・・・とあるが、実はそれだけでなく、ハンセンの運命はお父さんがドリーファンク・シニアの仕事上のお得意さん(農業用の器具関係)というところから


「そういや息子がいたな。先生で満足してるのか?」


という話から始まるそうだ。それ以前からテリーとハンセンは多少なりとも顔なじみであったようだ。しかしながらハンセンがプロレス以前にブルーザー・ブロディ、テッド・デビアスとなんらかで面識していて、さらにその後テリーによりみんなプロレスで運命を共にしているのだから(テリーはブッカーという外国人を来日させる窓口役もしていたので)ハンセンの著書にもあるようにテリーはすごく重要な人物だったんだなーと思わざるを得ないね。


スタン・ハンセングラフティー


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まだプロレス前、フットボール時代のハンセン。若いねー!ハンセンは中学校の教員とし地理とフットボールを教えていたんだって


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アマリロで修行時代、ジャンボ鶴田と。鶴田に送られてきた日本のインスタント・ラーメンをハンセンが食べちゃったというのは有名な話。おいしかったんだろうね


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初来日のハンセン(23歳)最初の来日は全日本だった。ずいぶんイメージがちがってた。この時代の評価は馬力だけのレスラーと、あまりよくなかった


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79年、ジョージア地区ではナショナル・TVヘビー級王者だったハンセン


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こちらはオクラホマ地区でのNWAノース・アメリカンヘビー級王者


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新日本で猪木からNWFヘビー級王座を奪取


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全日本でも馬場を下しPWFヘビー級王座を奪取した。馬場、猪木を下し団体の看板タイトルを奪取した人なんて、これは後にも先にもハンセンだけでは?偉業だね


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新日本時代のホーガンとのタッグ。ブロディとのタッグにも劣らないチームだったよね


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83年10月1~20日までの短い間だが衣料品やアクセサリーを扱うPARCOのCMに登場。キャッチ・コピーの「狩人か、旅人か。」は糸井重里。画像にもあるCM中に流れたPARCOの文字はハンセンの自筆だった。これレアだよー!


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81年12月にブロディのセコンドに付き新日本から全日本へ電撃移籍したハンセンの本格参戦前の自宅ショット。手前は前妻のデニス夫人。ハンセンの著書によると夫人と離婚問題で大変だった時期がこの頃だそうなので、マスコミに気を使って仲良く振舞っていたのかな?そうなると貴重な画像ですな


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85年12月、ニュージャージー州イースト・ルザーフォードでリック・マーテルを逆エビ固めで破りAWA世界ヘビー級王座を奪取。この逆エビ固めは起き上がろうとするマーテルのパワーをレフリーのブラインドをつきながらコーナーポストに頭を押し付け防御した頭脳プレーであった。画像は世界3大王者として君臨した当時のアメリカの雑誌“レスリング・スーパースターズ”


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全日本時代の中盤からは馬場、天龍ともタッグを組んだ。三冠戦、チャンピオン・カーニバル、最強タッグ・・・誰と組んでも、戦ってもいい試合をするハンセンは最高のレスラーだった


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平成13年1月28日、ついに29年間のレスラー生活に終止符を打った


次回はハンセン名勝負特集だぜ。見逃すなよウィー!!』