俳優というお仕事④~その人の中にある「理」 | 101回目のプロポーズ

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夢に向かう私の道のり

おはようございます、なこです。


昔からすごく不思議に思っていたことがあります。


「俳優さんは、
 自分とはかけ離れた役をする時、
 どんな気持ちで演じているんだろう。」


たとえば、
「悲しみ」や「喜び」や「怒り」や「嬉しさ」という「感情」は、
誰の心のなかにもあるもので、
経験した人生のありようは一人ひとり全く違っていても、
「悲しみ」や「嬉しさ」というひとつの枠の中に入っていれば、
自分の経験した感情と役の感情とを重ね合わせていくことで
リアルさを出していくことができるのかもしれない。


でも、


たとえば、

到底理解できないような重大な犯罪を犯した役、

ものすごく大きな不正を犯した役、

大切な人の命を自ら奪った人の役、

最愛の人を突然失った人の役、

信頼していた人からおとしいれられて全てを失った人の役、

重篤な精神の危機にある人の役、


それから、たとえば、

お医者さんの役、

弁護士の役、

スポーツ選手の役、

看護師の役、

パイロットの役。

時代も国も自分と異なる役。


そして、さらには、

動物の役、

異星人の役・・・。


そういう、自分の人生、経験、価値観と全く重なり合わない役を演じる時、
どんな風に自分の中でその役を理解し、
自分に落としこんでいくんだろう・・・。



たとえば、

大切な人を突然失った悲しみにくれている人の役を演じる時、
でも、自分にその経験がなかったら、
昔亡くなった祖父の死を思い返したり、
可愛がっていたペットが亡くなった時のことを思い出したりしながら
その感情を使って演じるのかな・・・?

それとも、
完全に想像で、自分の感情は全く介入せずに、
その役の気持ちをゼロから考えて、
その感情を自分の中に感じさせていくのかな?


前から折に触れて考えていたその疑問。


それについて、ここ数日さらに真剣に考えるようになったきっかけは、
前の記事で書いている、ある俳優さんの演技を観たことでした。

その俳優さんがそこで演じていたのは、

信頼し、尊敬している先輩に一生懸命ついていき、
自分のすべてをささげ、
「義」にもとづいて生きた一人の人物、

といっても、特別な仕事や才能を持っているわけではなく、
あくまで市井(しせい)の、どこにでもいる人物でした。

でも、私がそれ以前にその俳優さんを観たのは、
数年前にやっていたあるテレビドラマでの、
強烈な悪役を演じていた時でした。

その役でその人がかもし出していた「毒」があまりに印象的で、
私はしばらくその人のモノマネに夢中で、
何かにつけ、妹の前で披露しては喜んでいました(笑)


その役を観て以来、その人に対して、

「きっと、すごくアクの強い人なんだなぁ」

というイメージを持ってきました。


ところが、数日前に観た映画、
そこでその人が演じていた人物は、
数年前にその人が演じたあの悪役とは完全に真逆の「善なる」人物でした。

その役を演じるその人の表情、まなざし、言葉、たたずまい、
そのひとつひとつに私は激しく心を揺さぶられました。

完全に感情移入し、
その人物の気持ちになって、その作品を私も一緒に「体験」しました。


夢中で観終わった時、私の心には
その俳優さんが、というよりむしろ、
その俳優さんが演じたその人物が深く彫りつけられていたのです。

そして、思いました。

「これほど素晴らしい仕事があるだろうか・・・。」


どこにでもいるようなごく普通の人、
その人が経験した、私たちの誰もが経験する人生の一コマを、
私たちがみな持ち合わせている感情、しぐさ、言葉のすべてを使って
観ている人の心を揺さぶる、
一つの「芸術」にまで高めるということ、

それは、つまり、
本気でその役を「生き抜く」ということ。

悪役だとか、英雄だとか、
主役だとか端役だとか、そんなことは一切関係なく、

本気のもの、魂のこもったものに、
人はやっぱり激しく心を揺さぶられるのではないか
と思うのです。

そして、思いました。


数年前に観た、その人が演じたあの忘れがたい「悪役」も
数日前に観た、その「善なる人」も、
その俳優さんの中にどちらも存在しているのではないか、と。


つまり、自分と全く共通点のない「架空の人物」を
想像で作り出して「演じている」というよりは、
その俳優さん自身が生身の一人の人として経験した出来事、
感じた思い、目にしたこと、
そういう「自分自身」をくぐらせて、
あの人物たちは生み出されたのではないか
と。


「ジキルとハイド」という作品があります。




あの作品で描かれている、
「ジキル」というごく普通の良識的な人物と
「ハイド」という悪辣非道な人物、

物語としてかなりデフォルメされているにせよ、

私たちの誰もが皆、その身の内に「ジキルとハイド」を存在させているということ、
そのことに、改めて気づかされたのです。

そして、

「ジキル」にせよ、「ハイド」にせよ、

どちらも自分の「理」があること、
それに気づき、思わずハッとしたのです。

つまり、「英雄」であろうが「悪役」であろうが、
「天才」であろうが「凡人」であろうが、
みな、一人ひとり己の「理」=譲れない価値観や信念を持っているということ、

そこに思い至ったのです。

だとすると、

俳優さんが自分とはかけ離れた役を演じようとする時、
いつでも、その役の「理」=求めるものや大切にしているものを
理解しようとしているのではないか
と感じたのです。

その役としてセリフを言い、動き、
相手と関わっていくためには、
まず何より自分がその役を理解する必要があり、
そのためにも、俳優さんは、
その役なりの理や正義を考えていくのではないか
そう思いました。

そして、
その理や正義を理解でき、自分の腑に落とせたとき、
はじめてその「役」から魂がにじみ出てくるのではないか
と。

そして、その魂が、本気が、
観る人の心を揺さぶるのではないか
と思ったのです。

数年前にその俳優さんが演じていたその悪役は
主役ではなく、主役と敵対する役でした。

でも、そのドラマを観終わった私の心に残っていたのは、
主役の方より、その悪役の方でした。


強烈な毒であっても、
魂のこもった、その役なりの本気の「理」に圧倒され、
心をわしづかみにされた
のだと思います。


――そこまで考えたとき、
私は、ふと、思いました。


自分とかけ離れた役を
演じることは、
自分ではない他人を理解することと
同じ営みなのではないだろうか。



到底理解できない行為を行った役、

極悪非道な犯罪を犯した役、

受け入れがたい価値観を持った役、

それを自分の「役」として演じていくためには、
その役に本気で対峙(たいじ)し、
その役の目的や理や「正義」を探り、
それを理解、場合によっては共感し、
自分の「目的」だと感じられるまでに自分にしみこませていく必要がある、

そういう取り組みは、
取りも直さず、自分とは価値観の違う相手を理解し、
相手とつながろうとする態度と等しいのではないか、


そう思ったのです。

前回の記事で書いた、

私が小学校の時に演じた

「てぶくろ・麦・ばあや」

私にとっては、端役だったり、その他大勢だったり、望まない役だったり、
にすぎなかったけれど、


今振り返れば、あの3つのどの役にも
それぞれの価値や目的や「理」があったんだ、

なぜそこにいるのか、

何を求めていて、何を大切にしているのか、


それを知ろうとすることで、
自分の気づかなかった価値観、世界の見え方、
新しい捉え方を知ることができたのではないか、


そう思ったのです。


私たち誰もが、その心の奥に「ジキル」と「ハイド」」を持っていて、
私たちの誰もが、
自分だけの、譲れない「理」を持っている。


それを知るだけで、
世界は違って見える気がしたのです。


「役の『理』を知ることは、
 今まで知らなかった新しい人生を知ること」

そして、

「違う価値観の役を自分の中に取り込むことで、
 新しい自分を見出すことができる」


それが、俳優さんという
「役を生きること」をお仕事にしている方々の醍醐味ではないかと、
そう思いました。

俳優さんではない私には
すべて憶測にすぎません。

でも、

俳優さんが自分とかけ離れた役を

「この俳優さん、きっとこういう人なんだね」

と思わせるほどに、
真に迫った人物として、役を存在させること、

それこそが、


「自分とは違う価値観の人と
 本当の意味で理解しあい、つながりあう」


という、私にとって多分一番大切な姿勢に通ずるものだと感じたのです。


B'z「ユートピア」



出来てたことが出来なくなる
でもそれに気づきゃまた始められる

強く願うだけじゃ足りないよ
Now is the time 狭き門を行け
希望は新しい困難を産み落として
僕を試すよ
心配なんてそこら中にあるもの
甘えすぎないでやりましょ

寝るヒマもないくらいに夢を見たい

(B'z「ユートピア」)



(つづく)


読んで下さり、ありがとうございました。

あなたの毎日にたくさんの笑顔がありますように・・・。

なこでした。