メシヤの降臨とその再臨の目的

ヘブライ語の「メシヤ」という言葉は「油を注がれた者」を意味し、王を意味します。


イスラエルの選ばれた民は、預言者を通して明らかにされた神の言葉を信じていました。


その言葉は、神が彼らに王として救世主を送ると約束しており、それが彼らのメシヤへの期待でした。


神はこのメシヤをイエス・キリストという人物として送りました。「キリスト」はメシヤを意味するギリシャ語です。




メシヤは、神の救済摂理の目的を成就するために来られます。


人間は堕落によって救済を受ける必要があります。


したがって、救済の意味を明らかにするためには、まず堕落という事柄を知らなければなりません。


また、堕落は神の創造目的を成就できなかったことを意味するので、堕落の意味を明らかにするためには、まず創造目的を知らなければならないのです。


神の創造目的は、地上天国を建設することによって成就されるべきであったのです。


しかし、人間の堕落によって、神の王国の代わりに、地上に地獄を建設してしまいました。


堕落以来、神は、天国を復帰するための摂理を絶えず続けてきました。


救いの復帰摂理の歴史である人類歴史の第一の目的は、地上天国を建設することにあるのです。


 十字架による救いの摂理

(一)メシヤとして降臨されたイエスの目的

イエスがメシヤとして来られたのは、人類の完全な救済のためであり、救いの復帰摂理の目的を成就するためでありました。


イエスは、まず地上に天国を創建しなければならなかったのです。


このことは、イエスが弟子たちに「それゆえ、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でなければならない」と教えられたことからもわかります。


創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と完全に調和し、神性を持っているので、罪を犯すことはできません。


創造目的に対して、そのような人間は、天の父が完全であられるように完全であるとイエスが弟子たちにこの教えを与えたのは、彼らが創造目的を完成した人間として復帰され、天国の民となることを願ってのことなのです。


また、イエスは堕落した人類を神の国の民として新たにし、地上に天国を創建するために来られたので、神のみ心が天で行われるように、地上でも行われるように祈るように教え、また「悔い改めよ。


天国は近づいた」と人々に叫ばれたのです。


同じ理由で、主の道を備えるために来た洗礼者ヨハネも、王国の到来が差し迫っていることを告げました。


創造目的を悟り、天の父が完全であるように完全になった人間として復帰されたら、人間はどのような人間になるでしょうか。


そのような人間は、神と完全に同調し、心の奥底で神の心情を体感するようになります。


彼らは神性を備え、神と一体となって生きるようになります。


また、彼らには原罪がないので、贖罪や救世主を必要としません。


堕落した人間が神を求めるときに必要な、熱心な祈祷や信仰を実践したりする必要がなくなります。


さらに、彼らには原罪がないので、彼らの子女も生まれつき善良で罪がなく、罪の贖いのための救世主を必要としません。

十字架の贖罪により救いの摂理【神の計画】は完成されただろうか



イエスの十字架による罪の贖いは、救いの復帰摂理の目的を成就したのでしょうか。


そうであれば、イエスを信じる忠実な信者たちは、本性を復帰し、地上天国を建設されたはずです。


しかし、キリスト教の歴史を振り返ると、どんなに敬虔な信者であっても、神と一体不可分な生活を送った者は一人もおらず、神の心情を体得し、神性を具えた者は一人もいませんでした。


贖いの必要のない、熱心な祈りと精誠の生活を必要としなかった信者は一人もおりません。


偉大な神の人であった聖パウロでさえ、信仰生活と涙の祈りを欠かすことはできませんでした。


また、どんなに敬虔なクリスチャンの親であっても、救世主の贖いの恩恵なしには、原罪のない、神の国に入ることのできる子供を産んだ者は一人もいなかった訳です。


クリスチャンの親も、原罪を子供に引き継いでいるのです。


キリスト教生活のこの厳しい反省から何を学べるでしょうか。


十字架による贖いの恵みは、私たちの原罪を完全に根絶したわけではなく、私たちの本性を完全に回復したわけでもないことを私たちは知っています。


イエスは、十字架による贖いが、彼が来た目的を完全には果たしていないことを知っていたので、再臨することを約束しました。



イエスは、地上に天国を回復するという神の意志が絶対的で不変であることを理解していました。そのため、イエスは再臨して神の意志を完全に成し遂げることを望んだのです。


それでは、イエスの十字架上の犠牲は無駄だったのでしょうか。


もちろん無駄ではありません。もしそうなら、キリスト教はその輝かしい歴史を生み出さなかったでしょう。


さらに、私たち自身の信仰の体験は、十字架による贖いの恵みがいかに偉大であるかをはっきりと示しています。


十字架が私たちの罪を贖ったのは事実ですが、十字架が私たちの原罪を完全に清めたわけではないことも同様に事実です。


十字架は私たちを、決して罪を犯さない完全な本性の堕落していない状態に回復させたわけではなく、地上に天国を建設できるようにもしてくれませんでした。




十字架による救いの程度を正確に評価するとしたら、それはどのようなことでしょうか。この疑問に答えなければ、現代人が信仰を正しく導くことは困難です。しかし、まずはイエスの十字架上の死を再検討しなければなりません。