マインドコントロールの崩壊  : マインドコントロールと断定し貶める行為は正当か 旧統一教会含む

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本の概要 

マインド・コントロールの崩壊 バーチューライト著 マインド・コントロールと断定し貶める行為は正当か

まえがき
マインド・コントロールと聞いてどう思われるだろう。よく分からないけど洗脳に近い事をされて何か買わされたりする。


カタカナ造語だろうと思ってる人もいる。まさしくこのマインド・コントロールとはタイトルのマインド・コントロールだけ一人歩きしてまるで絶対正しいと思ってる人が多いような気がする。


間違った認識はあらゆる誤解を生じ一旦広まると修正が容易に出来ない。


そして、このマインド・コントロールに関してはあらゆる誤解や作為が潜んでいるように思えてならない。


このマインドコントロール論を訴える論者は自らの偏向した思考で特定の個人及び団体をマインドコントロール指定団体とし断罪する。そのような権限が彼らにあるだろうか。


また、一部の会員の罪状を元に他の多数の信者を罪人として特定しようとする。また、マインドコントロールの技術がそうさせていると問いながらその、宗教の根幹である真理、教義に触れようともしない。


要は教義に触れるとその真意善悪判断を試され、それが容易ではないからであろうがほとんどの論者はその、根本論にたどり着くこともしないのである。


このマインドコントロール論の発祥の経緯はまだしも特段問題視されなかったマインド・コントロール論がいつの間にかある特定の熱狂的な信仰に対する批判の技として使用されるようになったのである。


宗教学者 櫻井義秀氏は次のように述べている。「マインド・コントロールという理論は、態度変容を遂げた人物と利害関係を持つアンチ・カルト集団が、信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するために用いている議論であり、立論の当初から価値中立的なものではなかった。」


「現代の資本主義システム社会は自身の再生産のために、消費者の欲望を喚起して需要を掘り起こすコマーシャリズムの戦略を採らざるを得ない。


このような消費社会においては、情報・シンボル・記号による他者の操作が日常化しているために、個人のアイデンティティ、近代的個人という概念自体が揺さぶられている。


自分がいつの聞にか誰かに操られているのではないかという感覚はそれほど特殊なものではないのかもしれない。これがマインド・コントロール論を受容する主要な要因であろう。」



シンボル化するのに好都合だったマインド・コントロールは現社会においてはシステム上不可欠なものとならざる負えず誰もが少なからずその影響を受ける可能性があると言う訳だ。


その最たるきっかけはアンチカルトである反信者つまり強制的に脱会を迫る集団である。この文言は教団が側が都合よく利用したという経緯があり桜井氏にとってはカルト側を擁護する研究者という誤解をもたれたのは心外であったという印象を持たれている点だけ付け加えておこう。


尚、出典の情報は巻末にて。


総括
思慮ある賢者はマインド・コントロールの不自然さに気づくだろう。良きも悪きも太古から繰り返されてきた国家の内外の変革いわゆる革命などの発端となるのはその個人や集団が内包する信念や心情である。


そして、それを支え指揮する者は理念であり哲学であり、宗教では教義や真理であるわけである。その情熱は死をもいとわない確信の中から派生し活動の源になっているのである。


マインドコント論を指示したり唱えたり、それを持ち出して一方的に一部の宗教者や団体を非難することは信仰者全部を非難することに等しい。


なぜならば、今まで見てきたように論文自体に信憑性が無く手実験に関しても失敗に終わっているものを堂々と引き合いに出し、いかにもこれがマインド・コントロールの証明であるかの如く正当化する。


中には不平等な中でのテストを行い恣意的に利用強行する。それをマスコミ等に流布し大衆にマインド・コントロールの対象者はこれだと指摘し大衆の力で打倒しようとする。


かなり、論理者としてはひどい輩ばかりである。そして、この怪しい論文の一部を持ち回りで自らの論文に利用している実体さえある。


そもそも、このマインド・コントロール論かぶれの論者たちの目的は打倒したい、相手がいて作為的にマインド・コントロール論を持ち出しているのが理解できる。そのような中、櫻井義秀(北海道大学教授、宗教学者)氏だけは極めて別格である。統一教会に与され迷惑と言われていたが誰が見ても現段階では中立公平であると言える。


そして、前述のマインド・コントロールされたであろう世界の歴史や日本の歴史を見ていただこう。
マインド・コントロールは心理操作であると言ったが結局誰からも操作されないのである。最終的には自ら決めて実践している。


なぜか、誰かが技術や操作で行ったとしても大勢がそれに従うはずが無いしましてや、催眠などのまやかしで活動はしていない。


恐怖にさらされても活動していないむしろ、信仰のために恐怖を求めている。要は真理に出会って自己革命され、その熱情があって信仰したり革命を起こしたり戦争をしたりするのである。


国家間の戦いは誇りと言う信念かもしれないし信仰は神からくる心情かもしれないが、はっきり言えることはマインド・コントロールなる陳腐な理論では人は動かないし死にもしない。


いわば、マインド・コントロールを提唱する者自身がマインド・コントロールの幻想にはまりこんでいる。


マインド・コントロールが理解ができないマインド・コントロール初心者がこのマインド・コントロール論に騙されないよう願うばかりだ。