囚人たちの一線投入


共産党は、六・二五動乱が起こるや否や、すべての一線に誰を、動員させたかというと、
収容所にいる囚人を全員、動員したのです。


その時、興南監獄の千名近いすべての囚人たちに「十二里の道を行軍して集合しろ」という命令が下されたのです。


上部で我々を一線に出動させるための集
合命令を下し、我々はその命令を受けて出発しました。



その時、約八百余名が興南から元山、定平まで行きました。


もともと、汽車が通っていたの
ですが、その時は、爆撃を受けてレールが絶たれたため、約十二里ほどを歩いて行かなければな
りませんでした。


その時、残された服役者たちは、いくらもおりませんでした。


約七、八十人しか残さずに、全部連れていったのです。
その時、先生も引っ張られて行ったのです。 


夜八時に出発して、
夜通し歩いて行って明け方を
過ぎるまで、六里か八里ほど行きました。


昼は、爆撃のために
歩くことができないのです。
このようにして、汽車もやはり
夜の時間を利用するために、
四時前に到着するようになっておりました。


ところが中央から下ってきた汽車に、途中で事故が起きました。 
それで、仕方なく何日かそこに停車して、とどまるようになったのですが、そこにではかなりな支障となりました。


自分たち(看守達)はわずか数名しかおらず、囚人たちは多いので、問題が生じるのではないかと案じて、引き返してきたのです。 


引き返してきて三日後に、再び行ったのですが、その八百余名の囚人を全部連れて行き、私一人を置いていったのです。


私は別れて、そこに残り、さっと出てきたのです。

国連軍の興南上陸と劇的な出獄
(一九五〇一〇一四、深夜二時ごろ)



最後には、どうなるのでしょうか。 
監獄の門は開かれているのです。 
監獄の門が開かれて、
出ていかなければならないのです。


国軍は、元山を一番先に奪還しました。平壌には一九五〇年十月十九日に入城しました。 ここ興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。


そうして、彼ら(北朝鮮)が逃げたので先生が出て来れたのです。


それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。


十月十二日、刑期が七年以上である囚人、
およそ七十名ほどを、
三里ほどの山の中に引きつれて入っていき、全部殺してしまいました。


その当時、先生の刑期は五年であったために、その次の、次の日が
先生が引っ張られていく番でした。


ですから、神様はお忙しかったことでしょう。
十三日、夜道を見渡すと既に事態が変わっていました。


国連軍が興南に上陸したのです。


そのようにして、ついに十月十四日、共産軍が退いて、すぐ私たちは監獄から抜け出てきました。


その日の夜、総攻撃があって、夜中の二時ごろから逃げました。


私の場合、刑務所から出てこようとすれば、判事が許可してくれたのではありません。


サタンがしてくれたのです
サタンの公認を受けてこなければ
ならないのです。


先生は、先生がすることになっていたすべてのことを完遂したので、


天使長国家(アメリカ)と国連軍が
北韓を攻撃して、先生を解放させました。


それで先生は監獄を出てきました。
一九五〇年十月十四日です。 


先生の死刑執行予定日の前日、マッカーサー元帥の連合軍が、先生をそこから救出してくれたのです。それは、全く神様の恩寵でした。


国連軍が上陸することによって先生が監獄から出てくることになったこと、それが民主世界が恵沢を受けることができる条件になったのです。



言い換えれば、国連軍が上陸して、監獄の門を
開いて、先生を救出するようになったために、そこから民主世界が救いを受け、後援を受けるこ
とのできる因縁が残されたのです。


十月は、統一教会の解放の月です。


十月四日(西大門刑務所出監日)がそうであり、
十月十四日(興南収容所出監日)がそうです。


それを思うと、とめどなく涙が先立つ月です、私においては。


その期間に民族をみな失ってしまいました。


私が愛する家庭も失ってしまい、
愛する妻子までもみな失ってしまいました。