十字架による救いとは何だったのだろう?



イエスの目的




イエスがメシヤとして来られたのは、人類の完全な救済のためであり、救いの復帰摂理の目的である、



地上に天国を成就するためでした。



このことは、イエスが弟子たちに「それゆえ、あなたがたの神の父が完全であられるように、あなたがたも完全でなければならない」




と教えられたことからもわかります。


神の創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と完全に調和し、神性を持っているので、罪を犯すことはできません。



創造目的に対して、そのような人間は、神の父が完全であられるように完全であるとイエスが弟子たちにこの教えを与えたのは、




彼らが創造目的を完成した人間として復帰され、天国の民となることを願ってのことなのです。



また、イエスは、堕落した人類を神の国の民として新たにし、地上に天国を創建するために来られたので、神のみ心が天で行われるように、




地上でも行われるように祈るように教え、また「悔い改めよ。天国は近づいた」と人々に叫ばれたのです。



同じ理由で、しゅの、道を備えるために来た洗礼ヨハネも、王国の到来が差し迫っていることを告げました。


創造目的を悟り、神の父が完全であるように完全になった人間として復帰されたら、人間はどのような人間になるでしょうか。



そのような人間は、神と完全に同調し、心の奥底で神の心情を体感するようになります。



彼らは、神性を備え、神と一体となって生きるようになります。



また、彼らには原罪がないので、贖罪や救世しゅを必要としません。



堕落した人間が神を求めるときに必要な、熱心な祈祷や信仰を実践したりする必要がなくなります。



さらに、彼らには原罪がないので、彼らの子女も生まれつき善良で罪がなく、罪のあがないのための救世しゅを必要としません。



(二)、 十字架の贖罪により救いの摂理は完成されたでしょうか




イエスの十字架による罪のあがないは、救いの復帰摂理の目的を成就したのでしょうか。



そうであれば、イエスを信じる忠実な信者たちは、本せいを復帰し、地上天国を建設されたはずです。



しかし、キリスト教の歴史を振り返ると、どんなに敬虔な信者であっても、神と一体不可分な生活を送った者は一人もおらず、神の心情を体得し、神性を具えた者は一人もいませんでした。



あがないの必要のない、熱心な祈りと精誠の生活を必要としなかった信者は一人もおりません。



偉大な神の人であった聖パウロでさえ、信仰生活と涙の祈りを欠かすことはできませんでした。



また、どんなに敬虔なクリスチャンの親であっても、救世しゅのあがないの恩恵なしには、原罪のない、神の国に入ることのできる子供を産んだ者は一人もいなかった訳です。



クリスチャンの親も、原罪を子供に引き継いでいるのです。


キリスト教生活のこの厳しい反省から何を学べるでしょうか。



十字架によるあがないの恵みは、私たちの原罪を完全に根絶したわけではなく、私たちの本せいを完全に復帰したわけでもないことを私たちは知っています。



イエスは、十字架によるあがないが、彼が来た目的を完全には果たしていないことを知っていたので、再臨することを約束しました。



イエスは、地上に天国を復帰するという神の意志が絶対的で不変であることを理解していました。



そのため、イエスは、再臨して神の意志を完全に成し遂げることを望んだのです。


それでは、イエスの十字架上の犠牲は無駄だったのでしょうか。



もちろん無駄ではありません。もしそうなら、キリスト教はその輝かしい歴史を生み出さなかったでしょう。



さらに、私たち自身の信仰の体験は、十字架によるあがないの恵みがいかに偉大であるかをはっきりと示しています。



十字架が私たちの罪をつぐなったのは事実ですが、十字架が私たちの原罪を完全に清めたわけではないことも同様に事実です。



十字架は私たちを、決して罪を犯さない完全な本せいの堕落していない状態に復帰させたわけではなく、地上に天国を建設できるようにもしてくれませんでした。


十字架による救いの程度を正確に評価するとしたら、それはどのようなことでしょうか。



この疑問に答えなければ、現代人が信仰を正しく導くことは困難です。



しかし、まずはイエスの十字架上の死を再検討しなければなりません。