キーワード:9.  霊界・地上界・地上界と人間・肉体と霊魂・霊魂の構造

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第六節、 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界
(一)、 無形実体世界と有形実体世界


被造世界は、神の二性性相の似姿である人間の姿を模して創造されました。したがって、被造世界の構造とそこにあるすべての、実体は、最も根本的に心と体から成る人間の構造に似ているのです。



人間の心と体に対応し、被造世界は実体世界と無形世界から成り、どちらも実体的です。無形世界と呼ばれるのは、人間の五感では知覚できないからです。しかし、霊的五感では知覚できるのです。



霊的体験をした人々は、無形世界が私たちの住む世界と同じように実体的であると証言しています。無形世界と有形世界が一緒になって被造世界を形成している訳なのです。

 

肉体は心との関係を離れては活動できず、人間は神との関係を離れてはまことの行為ができません。同様に、有形世界も無形世界との関係を離れてはまことの価値を発揮することができないのです。



また、心を知らなければその人の性格を見分けることもできません、神を知らなければ人間の人生の根本的意味を理解することができないのと同様に、無形世界の性質と構造を知らなければ、有形世界の性質と構造を完全に理解することはできないのです。無形世界、すなわち霊界はしゅたいの立場にあり、有形世界、すなわち物質世界は対象の立場にあります。



後者は前者の影のようなものであり、私たちは、物質世界での生活を終えて肉体を脱ぎ捨てると、霊じんたいとして霊界に入り、そこで永遠に生きるのです。

(二)、被造世界における人間の位置


被造世界における人間の位置は三つの側面に分けられます。第一に、神は人間を被造世界のしゅかんしゃとして創造されました。被造世界はそれ自体、神に対する、ないてきな感性を持っていません。したがって、神は被造世界を直接しゅかんされるのではなく、むしろ、人間に被造世界の万物に対する感性を与え、被造世界を直接しゅかんする権限を与えたのです。



神は、水、土、空気など、物質世界の要素から人間の体を創造し、人間がそれを認識してしゅかんできるようにしました。霊界を認識してしゅかんできるように、神は霊界を構成する同じ霊的要素から人間の霊魂を創造されたのです。



変容山で数100年前に死んだモーセとエリヤがイエスの前に現れ、イエスに仕えました。彼らは、実際にはモーセとエリヤの霊魂だったのですが、イエスは、彼らと会話することができ、彼らの前で栄光を受けました。人間は、物質世界を支配できる肉体と、精神世界を支配できる精神から構成されており、同様に両方の世界を支配する可能性を秘めている訳です。

 

第二に、神は人間を天宙である霊界と地上界、の調停者、和同の中心として創造されました。人間の肉しんと霊じんたいが、授受作用により一体化し、神の、実体対象となるとき、肉しんと霊じんたいも、その人を中心として授受作用をし、和同一体化し、神に感応する天宙霊界と地上界を造成するのです。



人間は、二つの音叉が互いに共鳴する空気のように、二つの世界の調停者、和同の中心となるのです。また、二つの世界が通過する能力は、ラジオ、やテレビが目に見えない波動を目に見える映像や音に変えるようなものです。したがって、人間は霊界の、じっ相を肉しんに正確に伝えるのです。

 

第三に、神は人間を被造世界に存在する、すべてのものの本質を実体として、包摂するために創造されました。神は、人間の性相と形状の原型を無数の、実体として投影展開させて、被造世界を創造されたのです。神は、霊じんたいの性相と形状の展開として霊界を創造されたので、人間の霊魂は、霊界のすべての要素を包摂しているのです。



また、神は、肉体の性相と形状の展開とし、物質界を創造されたので、人間の肉体は、物質界のすべての要素を包摂しているのです。したがって、人間は被造世界に存在する、すべてのものの本質を包括しているので、一人一人が、小さい被造世界なのです。

 

しかし人間の堕落により被造世界はしゅじんを失ってしまいました。聖パウロは「被造物は本然の状態に復帰された神の子らの出現を切に待ち望んでいる」と語りました。悲しいことに被造世界の調和の中心であるべき人間が堕落により、肉界と霊界の授受作用が断絶され、二つの世界は統合と調和を全く達成できなくなってしまいました。分裂したままなので「被造物全体が産みの苦しみを呻いている」とパウロは続けて言いました。

 

イエスは肉と霊において完全な新しいアダムとして来られ、彼は被造世界の縮図でした。これが「神はすべてのものを彼の足元に従わせた」と書かれている理由です。イエスは私たちの救いぬしです。イエスは私たちの心を動かして彼を信じ、彼と一つになることにより、堕落した人々を彼が完全であったように完全になる道を開くためこの世に来られました。

(三)、肉しんと霊じんたいとの相対関係
(1)、肉しんの構成とその機能


肉しんはしゅたいであり、肉の心と書く、肉心と対象である肉の体と書く、肉体、の二性性相から成り、肉の心は肉しんにその生存、防衛、生殖に必要な機能を維持するように指示するのです。動物の肉の心の例をあげると、本能があります。肉しんが健やかに成長するためには、適切な栄養が必要です。



空気とたいよう、光という無形のよう性の栄養素を吸収し、食物と水という有形のいん性の栄養素を摂取しなければなりません。そして、体は消化器官と循環器官を通じて、この栄養の授受作用をおこなっています。

 

肉しんの善行と悪行に従って、霊じんたいも善化あるいは悪化します。これは、肉しんから霊じんたいにある要素を与えるからです。このように、肉しんから霊じんたいに与えられる要素を私たちは生力要素といいます。私たちは平素の生活において、肉しんが善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験しますが、これは、その肉しんの行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊じんたいへと回っていく証拠なのです。

(2)、霊じんたいの構成とその機能


私たちの霊じんたい、すなわち霊魂は、霊感によりのみ把握できる、実体的かつ無形の、実体で、肉しんのしゅたいてき存在です。霊じんたいは神と直接通じることができ、天使を含む無形世界をしゅかんするのです。霊じんたいは、外見上肉しんに、一致します。



そして、私たちは肉しんを脱ぎ捨てて霊界に入り、そこで永遠に生きるのです。私たちが永遠の生命を願うのは、私たちの内なる自己が永遠性を有する霊じんたいだからなのです。霊じんたいは、生心であるしゅたい、と霊体である対象、の二性性相から成り、そして、生心は霊じんたいの中心であり、そこに神が宿るのです。

 

霊じんたいは、神から来る、よう性である、生素と、肉しんから来る、いん性の生力要素の、授受作用により成長します。霊じんたいは肉しんから生力要素を受け取るだけでなく、肉しんに返す要素があり、それをせいれい要素と呼びます。人間が神霊の恩恵を受けると、肉しんに多くの良い変化が起こり、無限の喜びと、病気さえも追い払うほどの新しい力が湧き出てきます。このような現象は、肉しんが霊じんたいからせいれい要素を受け取るため起こるのです。

 

霊じんたいは肉しんに宿ってのみ成長することができますので、肉しんと霊じんたいとの関係は木とその果実の関係に似ています。肉心が生心に従い、肉心が生心の善なる目的に従って行動するとき、肉しんは霊じんたいからせい霊要素を受けて健全になるのです。それに対して肉しんは霊じんたいに善の生力要素を与え、霊じんたい自身が善の方向に正しく成長できるようにするのです。

 

真理は生心の最も奥深い欲求を明らかにします。人間は真理により生心の最も奥深い欲求を理解し、それを実践して責任を果たさなければなりません。そうして初めて、せいれい要素と生力要素が彼の中で相互に作用し合い、善へと進んでいくのです。せいれい要素と生力要素は性相と形状の関係にあります。すべての人間はせいれい要素が常に活動しているので、たとえ悪人であっても本心は善へと、むかうのです。しかし、実際に善の生活を送らなければ、せいれい要素は生力要素と正しく授受作用、することができずに肉しんに注入されず善となることもできない訳です。

 

以上のことから、霊じんたいは、地上生活においてのみ完成できるということが分かりました。生心は、肉しんという土壌の中で霊じんたいが成長するのを導きます。霊じんたいの、完成への成長は、創造原理により定められた秩序ある三段階を経て進行するのです。第一段階目である蘇生期段階の霊じんたいを霊形体、第二段階目である長成期段階の霊じんたいを生命体、第三段階目である完成段階期の霊じんたいをせい霊体といいます。

 

神を中心とし、その霊じんたいと肉しんが完全な授受作用によりごうせい一体化し、四位基台を造成し初めて、その霊じんたいはせい霊体として完全に完成します。せい霊体は霊界のあらゆる現実を正確に感じ、感知することができます。この霊的現実は肉しんを通じて共鳴し、生理的現象として現れるので、肉しんの五官を通じて認識することができるのです。このように、霊界と共鳴するせい霊体は、地上天国を建設します。そして、肉しんを脱ぎ捨てれば、霊界の天国に円滑に移行するのです。したがって、地上天国が建設され初めて、天上天国が実現される訳です。

 

霊じんたいのすべての感性は、地上生活の間に肉しんとの相対関係を通じて培われます。したがって、人間は地上生活の間に完成し、神の愛に完全に浸ってこそ、死後、霊じんたい、として神の愛を存分に享受することができるのです。霊じんたいのすべての性質は、肉しんに宿っている間に発達します。



地上生活の間に罪を犯した場合、堕落した人間の霊じんたいの悪と醜さがさらに増し、地上生活の間に罪のあがないが与えられれば、その霊じんたいは善なる道が開かれるのです。これが、罪深い人類を救うためイエスが、肉しんをもって地上にこなければならなかった理由なのです。ですから私たちは、地上にいる間、善なる生活を送らなければなりません。イエスが地上に残ったペテロに天国の鍵を授け、「あなたがたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でも、解かれるであろう」と言われたのも、救いの復帰摂理のしゅ目的が地上で遂行されなければならないからです。

 

人が死んだとき、その霊魂が天国に行くか地獄に行くかを決めるのは神ではなく、霊魂自身です。人間は完成すれば神の愛を十分に呼吸できるように創造されています。地上で罪を犯した者は、神の愛を十分に呼吸することができない、不具の霊魂になります。彼ら、不具の、霊魂はまことの愛の中心である神の前に立つことを苦痛に感じます。彼らは、自らの意志で、神の愛から遠く離れた地獄に住むことを選択するのです。

 

人間の霊じんたいは肉体という土壌の中でのみ成長することができるので、人間の霊じんたいの増殖は肉体の増殖が起こるのと同時に地上での生活の間に起こります。

(3)、生心と肉心との関係から見た人間の心


人間の心は生心と肉心とから成り、この二つの心は性相と形状の関係に似ており、神を中心として授受作用により一体化し、霊じんたいと肉体を調和させ、創造目的に向かって前進させる統一作用体を形成します。この統一体が人間の心です。

 

良心とは、人間の心の機能であり、その生まれながらの性質により、常に善いと思う方向に私たちを導くものです。しかし、堕落により、人間は神を知らないので、善の絶対的な基準、をも知らずにいます。このため、私たちは良心に適切な判断基準を設定することができません。善の基準が変化すると、良心の基準も変動し、これらは良心的な生活をしゅ張する人々の間でも頻繁に論争を引き起こします。

 

本心とは、人間の心の絶対的な善を追求する機能であり、外的な形に対する、ないてきな性質として良心と関係しています。人の良心は、たとえそれが本来の、基準と異なっていても、無知のうちに設定した基準に従って善を追求するように人を導きます。しかし、本心は正しい方向に敏感なため、この誤った基準を撃退し、良心を正すように働きます。

 

生心と肉心がサタンの束縛を受けている限り、その授受作用により形成される作用体を悪心といいます。悪心は絶えず人間を悪に駆り立てるのですが、本心と良心は、その悪心を退けるように私たちを導き、サタンとの縁を断ち切り、神と向き合うことにより、悪の欲望を拒絶し、善に執着しようとする必死の努力を私たちに促すのです。