25年前、当時の震度7という凄まじい揺れの地震を経験した阪神・淡路大震災。
震度7とはいえ、我が家周辺の家屋は見た目が無事でした。
同じ町内でも少し下界へ下りると、ドミノ倒し状態で一軒家が壊滅。
我が家の判定も「半壊」でした。
電気が復旧したのは夜9時ぐらいだったかな?
TVをつけて初めて、我が家地方の被害なんてまだまだ…だった事に驚きました。
水道が復旧したのは、ラッキーだったとしか言えない翌日のお昼頃。
ガスは3月上旬に復旧。
我が家の元栓を開けに来てくれたのが、北海道ガスの方だったと知り(父の話による)、
全国の方々から応援して頂いた事に感謝しかないです。
18日朝にTVにて、親友の住んでいた町内が映し出されて「嘘やん!!」とただただ無事でいる事を願いつつ。
その願いも虚しく、3日後ぐらいに両親と共に発見されたのを新聞の地域面で知る事となりました。
今まで親友一家は全員亡くなったと思っていたのですが、
先日判明した某新聞のネット記事により、妹さんだけたまたま県外へいたので、無事だったと。
私は妹さんだけでも無事だった事がとても嬉しいのですが、
妹さんからすれば、帰宅するはずの家は無く、更に残酷な事実を知らされたら…。
それを想像しただけでもう涙が出そうです。
今まで明らかになっていなかった親友一家の事。
きっと親友が「りお。いつまでも悲しまないで、事実を知って」って教えてくれたんだとしか思えない。
私も数年前に親友の名前が刻まれた慰霊碑の写真を見て、
少しずつ事実を受け入れられるようになりましたが、25年を機に詳細が分かり、改めて
「生きたくても生きられなかった親友の分まで、恥じないように生きる」と決めました。
いつの間にか、親友が亡くなった年月の方が長くなってしまいましたが、
親族提供の写真を見ると、思わず「元気ー?」って言いたくなりそうです。
↑1995年の1月下旬頃だったかな?この葉書が届いたのは。
当然の事ながら印刷だと思っていたものの、こんなにもファンの事を心配してくれていたんだ…と玄関先で涙が溢れ、
光の加減でそれが直筆だった事が分かると、膝から崩れ落ちて号泣してしまいました。
今でもLIVEで「ラジカル・ティーンエイジャー」を演ると、この葉書を思い出して、涙が溢れてしまうのです。
1995年1月17日午前5時46分。
6434人もの犠牲者に黙祷。
※本日はコメントを頂いてもお返事出来かねる事をご了承下さい。