はじまりはビアガーデンだった。
2008年8月6日、ケニーと飯伏はシングルで初遭遇。翌年1月にタッグを結成し、ゴールデン☆シャワーでKO-Dタッグを獲った。
2009年には飯伏が、2010年にはケニーが新日本のBOSJに参戦。メジャーでの露出が増えはじめる。
結成から約2年、
2010年10月11日の新日本両国大会
2人はIWGPジュニアタッグ選手権でアポロ55に勝利し、初のメジャータイトルを戴冠。
ジュニアタッグの試合としては初めて、プロレス大賞のベストバウトを獲った。
そして、
新日本に認められたのは飯伏の方だった。
2011年5月にBOSJを初制覇すると、2011年6月にはIWGPジュニアを奪取。
自分が密かに憧れている団体で、1番近くにいる飯伏が脚光を浴びている。嬉しさよりも、悔しさが勝っていたことは想像に難くない。
2011年9月、飯伏は怪我でIWGPを返上し欠場。その翌月に、ケニーは全日本の両国でKAIが持つ世界ジュニアを奪取した。
時期は微妙に異なれど、新日本と全日本、2つの団体の王座にゴールデンラヴァーズが輝いた。
2012年5月にケニーがKAIのリベンジを受けて王座から陥落、2ヶ月後の7月には、飯伏がロウキーに勝ってIWGPジュニアに返り咲き。史上初、KO-Dとの二冠を達成した。
またしても同時に王者へ輝けなかった2人。すれ違いを埋め合わせるかのように、その時はやってきた。
2012年8月
DDT日本武道館大会で、4年ぶりの一騎打ちが実現。
飯伏の2階スタンドからのムーンサルトアタック、場外への断崖雪崩式フランケン。危険技のオンパレード。
誰もが目を背ける悲惨な死闘で飯伏が勝利し、2人の運命はまた、別々に歩きだした。
飯伏はその試合で力尽きたかのように、9月にKO-D、10月にIWGPを失った。わずか1週間で2つの王座から陥落した。
メジャーの王座から離れた2人。
ケニーは2012年12月にKO-Dを奪還、2013年2月には新木場でワンマッチ興行という形を取り、飯伏と共通の親友、中澤マイケルとベルトをかけて激突した。
その後、2013年上半期は飯伏、ケニーともに、KO-Dをかけた試合で入江に敗戦。
わずかなブランクの後、メジャーの時計はまたしても飯伏に動く。
2013年夏のG1に飯伏の初参戦が決定。中邑との死闘で自身2度目のベストバウトを獲った。
そして、2013年10月7日
飯伏の2団体所属が発表された。
あれはいつからだろう。ケニーはDDTへ参戦してるにも関わらず、Facebookの勤務先を「新日本プロレス」にしていた。
露骨に憧れをあらわにしてた。
2団体所属会見から間もない、
2014年1月4日
飯伏がデヴィットを撃破し、3度目のIWGPジュニア王座についた。新日本の中心に近づき始めた飯伏。時同じくして、ゴールデンラヴァーズがタッグ戦線に戻ってきた。
2014年1月26日に3Wayマッチを制してKO-Dタッグを奪取すると、熱い防衛戦を展開。
憧れのレスラー人生を歩む飯伏が、真横にいる。
彼のなかで何かがはじけても、
何も不思議ではなかった。
「竹下、遠藤。DDTを頼んだよ」
2014年10月3日
ケニーがDDTから新日本へ移籍することが発表された。彼が最後に選んだ試合は、ゴールデンラヴァーズとしてのタッグマッチ
10月26日、2人はDDTの象徴であるディーノと、DDTの未来である竹下と相対した。
4人しかできない展開で進む試合。
飯伏がコーナーポストに登り、4度目のPKこころへ。と思いきや、ケニーが叫んで後楽園を見渡す。
彼がDDT最後の技に選んだのは、
クロイツラスでもなく、
片翼の天使でもなく、
ゴールデン☆シャワーだった。
タッグのベストバウトを受賞し、名実ともに世界最高のタッグチームへと駆け上がった2人を象徴する、
合体式のファイヤーバードスプラッシュ
過去に決めたどのシャワーよりも、この1発は完璧に息が合っていた。
3カウントが響く、後楽園ホール。
タッグのベストバウトを受賞し、名実ともに世界最高のタッグチームへと駆け上がった2人を象徴する、
合体式のファイヤーバードスプラッシュ
過去に決めたどのシャワーよりも、この1発は完璧に息が合っていた。
3カウントが響く、後楽園ホール。
ドロキでやったケニーのお別れ会の風景
余談:ケニーの新日本デビューになるとヤマを張って初めて参戦した大阪府立で、
無事、バレクラ入りを見届けた。
衝撃の新日本登場から2カ月後、
2015年1月4日ケニーは移籍1発目でIWGPを奪取し、一気にジュニア戦線の主役に躍り出た。
皮肉にも、親友がちょうど1年前に同じ場所で獲ったベルトを腰に巻いた。
一方の飯伏は、同じ日のセミファイナルで中邑とインターコンチをかけてベストバウト級の試合を披露。
ことごとく、
飯伏はケニーの上をいった。
2人の物語が新日本で動きはじめたころ、
ある男もDDTを去ることが決まった。
シンガポールでジムトレーナーとして新たな挑戦をするという知らせだった。
彼がDDT所属としての後楽園大会の最後の試合で最後の技に選んだのは、
ケニーオメガの波動拳だった。
こんなエピソードがある。
飯伏は新日本所属になっても、道場へ練習にもいかなければ、試合当日は控え室にも入らなかった。
いつもマイケルと一緒にいた
どこに行くにも一緒だった
ベストバウトを獲った2013年のG1も、飯伏が直接マイケルにオファーする形でマイケルが全戦に帯同した。
マイケルは2015年の1.4を最後に、
飯伏のセコンドから卒業した。
飯伏は2人の親友を失った。
しかし彼はたった1人で、
ヘビー級転向後、初のタイトルを獲った。
ヘビー級転向後、初のタイトルを獲った。
ニュージャパンカップ 2015 優勝
亡き親父さんに捧ぐ勝利だった。
そして遂に、新日本最高峰のベルト、
IWGPヘビーへの挑戦の切符を手にいれた。
新日本の頂点まであと、3カウント。
舞台は両国国技館。
4月5日が歴史を変える夜になる。
…はずだった。
至宝へのフェニックススプラッシュ。
コーナーにのぼった
飯伏の前に立ちはだかったのは、
ケニーだった。
ゴールデンラヴァーズが、
新日本のリングで再会してしまった。
仕掛けが遅れた飯伏はスプラッシュをAJにキャッチされ、スタイルズクラッシュを喰らってIWGPの獲得に失敗。
友の夢を打ち砕いたケニーは、敵ながら頭を横に振ってリング上で涙し、国技館の外でうなだれ、途方にくれた。
ゴールデンラヴァーズが、
新日本のリングで再会してしまった。
仕掛けが遅れた飯伏はスプラッシュをAJにキャッチされ、スタイルズクラッシュを喰らってIWGPの獲得に失敗。
友の夢を打ち砕いたケニーは、敵ながら頭を横に振ってリング上で涙し、国技館の外でうなだれ、途方にくれた。
2015年夏
飯伏はG1クライマックスに参戦し、
2014年に流れた棚橋との札幌決戦を実現。
9月はケニーがKUSHIDAとの再戦で再びIWGPジュニアを奪取したが、2カ月後、衝撃の知らせがプロレス界を揺るがす。
飯伏、頚椎椎間板ヘルニアで無期限の長期欠場。
派手な受身を信条とする飯伏の首にあった爆弾が爆発してしまった。
ケニー本人も動揺を隠さなかった。
盟友の一報から2ヶ月後の2016年1月4日、東京ドーム大会。ケニーはIWGPジュニア王座から陥落。
盟友の一報から2ヶ月後の2016年1月4日、東京ドーム大会。ケニーはIWGPジュニア王座から陥落。
しかし、わずかその1日後の後楽園。
衝撃の番狂わせが起こった。
ケニーはAJのアシストを経てタッグながら中邑からピンフォールを奪い、試合後にAJ自身をノックアウトしてバレットクラブから追放。
飯伏がヘビーに転向以来、1度も倒せなかった強敵2人を数分で立て続けに大の字にした。
ケニーはレスラー人生ではじめて、飯伏が到達していない領域に脚を踏み入れた。
ケニーはヘビー転向を宣言し、中邑が返上したIWGPインターコンチネンタル王座を賭けて、2月14日に新潟で棚橋と戦うことに。
迎えた大一番。
ケニーは終盤にハイフライフローを間一髪で避け、Vトリガーから片翼の天使を敢行。
下馬評の予想を覆して棚橋を完璧な内容で撃破し、IWGPインターコンチネンタル王者に輝いた。
"キング"と"エース"から立て続けに3カウントを奪ったケニーは、実績でついに飯伏を超えた。
その頃、飯伏はDDTと新日本の2団体同時退団を発表。飯伏プロレス研究所の設立を表明した。
WWEのクルーザー級トーナメントへ参戦するなど日米を股にかけるも、日本のメジャーからは姿を消した飯伏。
一方、ケニーの勢いは止まらなかった。2016年7月、G1クライマックスにエントリー。
Bブロックの最終戦で内藤を撃破し、なんと、初出場ながら優勝決定戦に駒を進めた。
ケニーは再び、新日本で飯伏が進んだことのないステージへのし上がった…
























