前回のブログエントリー『ある日、突然、通訳になった』の続きがあるんだけれど、今日印象的な出来事が2つあったので、それを備忘録として書いておきたいと思う。
まず一つ目。
スーパーマーケットへ"クランベリージュース"を買いに行った。
たぶん日本でも同じだと思うんだけれど、当地のスーパーでは普通のレジとは別に、セルフサービスのレジのコーナーがある。
そこには、大抵コンピューター管理とサポート役としてスタッフが一人いる。
俺はそこでグラスに入ったクランベリージュースを2本買い、タッチスクリーンでレジバッグの必要枚数を0と選択した。
買い物へ行くときにはいつもマイバッグを持っているので、毎回どこへ行っても0を選択することが常となっている。
ちなみにレジバッグは1枚につき、5セント(日本円で5円ほどの価値)がチャージされる。
ところが、今日はそれからリカーストアへ歩いて移動してワインを1本買うつもりだったことを思い出したので、レジに積んであるレジバッグ(紙袋)を1枚つかんだ。
そしたら、その1秒後、すぐ近くにいた、セルフレジのサポートスタッフのおばちゃんが、
「ヘイ、あんた! レジバッグを『いらない』って選択したでしょう!(サポートデスクにモニターがあって、すべてのレジのアクティビティが見られるのだ)」
「どうしても必要なら、今日は持っていきなさい。でも次はきちんとレジバッグ必要枚数選択して!」
と、結構な剣幕でまくし立ててきた。
そこには、俺が言い訳を伝える余地もなく、ただ呆気にとられてしまうだけだっだ。
俺が何も買わずにレジバッグだけ持っていこうとしたのなら、まだ理解できる。
けれど、20ドル以上の買い物をして、支払いを済ませてから、「あっ、やっぱ今日はグラス持っているし、落としたくないからレジバッグもらっていこうっと」としたことで、結構な叱られ方をしたことに俺は少しイラっとした。
俺がしたのと同じように、セルフレジではレジバッグを不必要と選択しながら、結局は持っていく客が多いので、おばちゃんもイライラしていたのかもしれない。
俺の言い分としてはこうだ。
おばちゃんが働くスーパーマーケットで、20ドル以上の買い物をしたことについては感謝の言葉や態度を微塵も見せることもない。それでいて、支払い後にふと気づいて5セントのレジバッグを掴んだことには”鬼の首を取った”かのような剣幕で怒ってくる。
そんなに怒られるようなことしたかね、俺。と。
まあ、店のルールに従わなかったのは俺で、スタッフはお客さんに感謝する、ということはルールにないのだから、どちら側の正当性が法的に受け入れられるかといえば、それはおばちゃんの方なんだよね。
そんなモヤモヤした気分を抱えたまま、俺は愛娘のために本を借りようと、図書館へ向かった。
日曜の今日は、家族と別行動をとっていたのだ。
愛娘が好きそうな本を何冊か借りて、雨が降り注ぐ中、家路へとドライブしていたら、非常点滅表示させている車が道路の真ん中に1台。
その道は結構な交通量があり、他の車はその車を避けながら走っていた。
よく見ると、その車、道路の真ん中で緊急停車しているんじゃなくて、少しづつ動いているじゃないか。
少し古い型のBMWのセダンを、大きな体をした男が運転席のドアを開けて、つまりは片側だけから、自分の力で車を押していたのだ。
さすがはカナダ、である。
軽自動車じゃなくて、普通のセダンを1人の男が、ドア枠を掴んで押して移動させているのである。
カナダは毎年大量の移民を受け入れている。また、カナダに移民したいという人たちも、これまた多い。
住民の格差は日々広がり、ホームレスが増えているのに対して、街中には多くの高級車が、もはや高級車扱いにはならないほど走っている。
そういう裕福なはずの人たちがドライブする車は、雨が降っている寒い夕方ということもあってか、1台も停まることなく、その身一つで男性が押している車の横をスピードを下げて通り過ぎるばかり。
交通量が多い道ということもあり、なかなか俺の車はそこに近づけなかった。と同時に、その男性の車は明らかにガス欠で動かず、その時点でガソリンスタンドの目と鼻の先まで辿り着いていたことが確認できた。(だから誰もヘルプしなかったというのもある)
俺は別に良い人だと思われたくて手を貸そうと思ったんじゃなく、それよりも他の車が全く止まる気配を見せず、誰一人も車から降りてこない情景を目にして、胸にこみ上げてくるものがあった。
だって、自分が暮らしている街で、困っている人を見ても素通りするだけなんて、余りにも寂しいじゃないですか。
高級車が走り回って、ピカピカなビルがじゃんじゃん建っているとしても、そんなんじゃ”豊かな街”でも何でもないじゃないですか。
こうゆうときに、あまり躊躇せず、とにかくアクションを起こすことが大切だと思えるようになったのは、学生時代のある出来事がきっかけになっている。
俺が学生時代に、日本海沖でロシアのタンカー、ナホトカ号重油流出事故が起こった。
重油は美しい日本海の沿岸に流れ着き、北陸出身の俺には他人ごとではなかったこともあり、心が痛んだ。
その時に同級生の一人が「ボランティアを募って、グループで重油の除去作業を手伝いに行こう」と大学内で企画した。
地方の、小規模で静かな学生が多かったその大学で、「他県で起こっている重油除去活動に手を挙げる者なんているのかね?」と、俺は頭の中でいろいろ考えること数日間。しばらく経ってから意を決して、その友人に
「あのさぁ、俺、今回のボランティアに参加したいんだけど、人少しは集まっている?」
と何気なく聞いたら、
「あーっ、残念・・・もう定員に達したから、今回のボランティアはもう募集してないんだわ・・」
と、申し訳なさそうな声で答えが返ってきた。
この時、俺は頭の中で勝手にストーリーを作り上げた挙句、アクションを起こすことに躊躇して、終いにはボランティアに参加できなかった自分に情けないやら、むかつくやら、今でも忘れることのできない大きな後悔を残したのだ。
特に、子供の頃から環境問題に関心があり、積極的にその分野のゼミや科目を取っていたこの俺が、「ここぞ」というときに二の足を踏んでしまったこと。それを思い返すと胸が締め付けられるのだ。
そういう経験があるので、もう少し近づいて、誰もその男性をヘルプしていないんだったら、俺が行こうと決した。
今の俺が、年老いてヨボヨボで、手を貸すどころか足手まといになるようなら、いくら胸にこみ上げるものがあってもヘルプすることはしないだろう。
けれど、今の俺は、少なくとも、車を後ろから押すくらいの力は十分に備わっている。
そう思っていたら、俺の車の3台ほど前を走っていた真っ黒で頑強なジープが速度を落として、どうやら路肩に自分の車を停めるところを探しているような動きを見せていた。
でも、路肩にはズラッと車が駐車してあって、スペースが全くない。
結局、ガス欠のその車は、ドライバー男性一人でガソリンスタンドまで辿り着き、真っ黒なジープは後を追うようにガソリンスタンドのパーキングに停まった。
給油口まであと数メートルというところで、そのジープから小走りで降りてきて、ガス欠の車を後押したのは、ヒゲもじゃでワイルドな若者だった。
『こういう状況でヘルプしようとするのは、やっぱりこんな感じの人だったな』
俺は静かに心の中でそう思った。
自分ではなく、他の誰かがヘルプに走ったということも、俺がやったことよりも結果として良かったと思う。
変化が著しいこの街でも、まだ以前と変わらないものがある、とわかったから。