ボスの両親が香港から来た。



日本で"人格者"と言われて、多くの人が頭に描く像は、簡単に表現すると「貧しくとも清く正直に生きる(生きた)人」というのが俺の印象。


一方で北米、そしておそらく他の多くの国々では、莫大な資産を築き、その多くを他者に還元した人(もちろん寄付も含めて)という印象を持つ。

はっきり言うと、お金をより多く稼ぐことに対して、日本人に比べると、罪の意識を感じたり、後ろ髪をひかれる思いをする人はかなり少ない。

それくらい『清貧』に対する考え方が大きく違う。


根本的にこんなに違うのだから、国が変われば“人格者”の定義が変わるのも全く不思議じゃないし、正解回答もないのが当たり前なのだ。


いきなり主題から逸れてみたけれど、その香港から来たボスの父親が、俺からしたら“人格者”に感じられた。


ボスの父親は、相当な努力家だったらしく、自分の代だけで、香港の有名なホテルを築いたそうだ。


日本人はそんなにいないけれど、中国(香港や台湾を含め)や韓国の富裕層たちは、父親が本国でお金を稼ぎ、子どもたちはカナダやアメリカで教育を受けさせて母親と長期で生活する、というスタイルは珍しくない。

俺のボスもそうだった。


ボスについて書くと、俺のボスは2人いる。つまり夫婦で企業を経営している。

夫の方は、クリスチャンの家系で生まれ育ち、昔から裕福で、家にはいつもお手伝いさんがいた。誰からも好かれるような温厚なタイプの人だ。

ただ、誰に対してもフェアに優しいので、頼りにされることが多く、約束したことをすぐに忘れる人でもある。


そんな夫を支える妻の方は、かなり頭脳明晰で、経営の実権を握っているのはこちらの方だ。スタッフに対する指示も細かい。

聞いたことはないけれど、ほとんど自分が従業員として働いた経験がないからか、言葉では温かくとも、対する行動を見ると血が通っていないように感じることがままある(笑)。


今回訪れたのは、その妻の方の両親。

だからというわけではないけれど、落ち着きのない、それでもって偉そうな態度のリッチなおっさんを勝手に想像していたのだ。


実は俺たち家族は、今、そのボスの両親が所有するコンドミニアムを賃貸している。


ボスのファミリーは高級住宅街の、その中でも大きい方になる、まるで博物館のような家に住んでいる。

なので、当然ゲストルームなんかもあるんだけれど、娘のファミリーを邪魔したくないのかどうなのか、自分たちがカナダに来たときだけ泊まる用に2部屋ほどだけのコンドミニアムを数年前に購入したそうだ。


ところが、妻(ボスの母)が病を患ってしまい、なかなかカナダに来られなくなってしまった。なので、ボスのスタッフで条件が合えば、優先してテナントとして住まわせてもらい、俺たちファミリーは、その2代目となる。


コロナも落ち着き、ボスの母の病状も一旦落ち着いたということで、数年ぶりにカナダに居る娘ファミリーを訪ねることになったというわけだ。


そして、そのついでというわけではないけれど、自分たちがカナダに滞在すときに "実物を見ることなく" 購入した、「自分たち所有のコンドミニアムを一度見てみたいんだけど」というオファーをボスの方からされたのだ。


日本でもマンション購入時にあるんじゃないかな?建設前にモデルハウス(ルーム)を見て購入することで、建設後に販売されるよりも、幾分か安い値段になるということが。


「エッ〜、マジかぁ。俺たち普通に住んでいるんだけどなあ・・」


と思ってみたものの、そこは仕事先のボスに加えて、大家でもあるので、きっぱりと断ることもできず(苦笑)


普段から気を遣ってきれいに住んでいるので、特に困ることもないんだけど。



そうして、ある日の夕方、俺がディナーの支度をしているときに、ボスが両親を連れてやって来た。


俺は日本人であるけれど、20年以上カナダに暮らしているので、そこはやはり日本にいる日本人の常識とは大きくハズレてしまっているところがあることは否めない。


まず、ゲスト用にスリッパを用意するという思い付きもなく、それを予測していたかのように、ボスの母親は自前のスリッパ片手にやって来た。。。


簡単に二人と握手と自己紹介を済ませ、俺の配偶者が家の中を案内し始めた。

俺はというと、とっとと帰って欲しかったので、引き続きキッチンでディナーの用意。


熱心に質問しながらジロジロと人の家の中(あっ、俺たち所有じゃなかったか)を見て回る妻とは反対に、夫の方は居心地が悪そうに、大して見て回るでもなく、キッチンにいる俺の近くへとやって来た。


初対面で色々と相手のことを詮索するのは俺の趣味ではないので、当たり障りなく、俺は自分のことを話し始めた。


「Thank you for working with my daughter's company.」


自分の娘の会社で働く一スタッフの俺に、まず感謝の言葉をかけてくれた。


俺が過去に自分のビジネスを経営していて、そこでの失敗談を軽い感じで話したんだと思う。


その時、ニコニコして聞いていた夫の顔が急にキョトンとなり(怒ったとかではなく、本当にキョトンと)


「ん?ビジネスや人生に”失敗”なんかないよ〜。それは ”経験” をしただけだよ」


と、本当にその一言だけ、それまで閉じていた口から出た。


それから間もなくして、相変わらず愛娘の部屋を色々と見回していた妻と娘(ボス)に、キッチンから


「Hey, guys. Now we should go. (おい、チミたち。もうええやろ。行くぞ〜」


「We just wanted to see here. We've seen it only on paper. So we are ok now. Thank you for your time.(ちょっと見たかっただけだから。ほら、図面でしか見たことなかったから。もう十分だよ。 見せてくれてありがとう。)


そして、何一つアドバイスや、自分の偉業や経験談を語ることもなく、静かに去っていった。



もちろん、ほんの15分ほど時間を共にしただけで、俺は初対面の人の『ひととなり』を完全に理解できるほど、人として成熟してはいない。


けれども、これまでいろんな人種、いろんな人たちとの出会いがあって、自身も苦楽を経験してきているので、他者の心の深さというようなものを察知する感度は高いと自負している。



俺が尊敬できるような人は、ざっと書くと


−聞いてもいないアドバイスを勝手にしてこない

−自分のモノサシ(経験・概念)だけが、正しいとは思っていない

−自分の偉業や武勇伝などを語ってこない

−オーラを感じない(本当にすごい人というのは、オーラすら出すまでもないのだと思っている)

−基本的に口下手 



ボスの父親に関しては、意外と香港では偉そうに周囲には振る舞っているのかもしれない。

たとえそうだとしても、一体どうだというんだろう?


人から感銘を受けたとしても、当然そういうこと(俺をガッカリさせるようなこと)もあるだろうな、ということも数々の経験から学んだ。

人は所詮“ヒト”であって、”神様”じゃないんだから。



「あんなことがなければ・・・」

「あそこでやらかしてしまった・・・」

「なんで、あんなこと言ってしまったんだろう」


すぐに、こんなふうに考えが浮かんでしまうのは、俺の生まれつきの性分。

それを無理矢理にポジティブに変換しようとするのは好きじゃない。


でも、そんなふうに考えが浮かんでしまう自分を、否定も、責めることもせず、ただ ”経験した” と捉えること。


うん、100%は無理だけれど、これを意識して生きることは、自分にもできるかもしれないな。






誰が座る?

最近たまに見る“炭”が混ざったサワードウブレッド