SNSを見ていたら、サッカーワールドカップで日本代表チームが使っていたドレスルームが、退室後とてもきれいだったこと、そして、日本人サポーターが陣取っていたスタジアムの場所はゴミが残されていないことを画像と共に述べられていた。そして、それに対して結構な反応もあったみたいだ。

「うん、確かに使用後とは思えないドレスルームだ!」

と言うのが俺の第一印象だ。

現地観戦には行っていない。が、俺は多人種・異文化の人々が暮らすカナダに長年いるので、他国のドレスルームと比較する画像はなかったけれど、だいたいどんな感じかは想像がつく(笑)

それについてのコメントを5つか6つ流し読みしたなら、

「本当に彼・彼女らの行動は感心させられる」
とか
「みんなで見習いましょうよ」
とか
「人々が皆、日本人のような行動をしたら、さぞ世の中は素晴らしいでしょう」
のような、日本のメディアが喜んで使いそうなもので、それに賛同する"LIKE"も多く付いていた。

が、その中で一つ、「う~~む」と考えさせられるコメントを見つけた。

それは

「確かに良い行いだとは思う。けれど、『これが日本人のスタンダード』とイメージが固定化されるでしょう? それによって苦しむ人(日本人)もきっといるんでしょうね・・」

というようなものだった。

「ああ、この人は冷静に、そして広く物事を見ることができる人だなあ」と感心させられた。
確かにもう、国際規模のスポーツイベントで、試合後の日本人ファンの行動には嫌でも注目が集まるよね。

日本に暮らし、全く外国にも外国人にも興味がなくて、今後死ぬまで旅行や海外に滞在することがないような人は、

「どうだ見たかい? これが日本人なんだよ。ムハハハ」

とか他人事のように思っていれば良いんだろうけれど、俺はカナダで暮らしていて、俺の言葉や行動を通して、日本人一般のそれと捉える人が実は少なくはない。
なので、日本であった出来事や、日本がニュースになるようなことには敏感で、日本で暮らす日本人とはどうしても違った反応になってしまうところがある。

で、今回話題になったことに話を戻す。

日本代表チームやファンの行いが、今後世界に浸透し同じような動きが起こるだろうか?または起こっているんだろうか?

俺は、そう思わない。

北米のベースボールスタジアム(球場と呼ぶのとはちょっと違う)は、ゲーム終了後、ビールやジュースのカップ類、食べ残したフライドポテトやハンバーガーなどが散らかっている。そして、その光景が、またいかにも熱戦後のスタジアムとも呼べる風情にもなっている。
また、世界のスポーツ、イベント、エンターテイメントのような場では、散らかす人がいてこそ、またそれを片付けることによって賃金を得ている人がいる、ということが成り立っている現実もある。

「日本すごいね〜」

とは言っても、

「よしっ、真似しよう」

と、簡単に言う国や人々は思うよりずっと少ないものなのだ。
なぜなら、日本で生まれて、日本の習慣文化・考え方の中で育った人たちじゃないから。


他者への ”気遣い” という点について


日本人自身が自負しているように、日本のカスタマーサービスやサービス精神は、確かに世界で類を見ない。
けれど、どうだろう?
日本人が言語を学んだり、料理を学びに外国へ行くのと同じように、外国人が「日本のカスタマーサービスを学びに行く」という人は、カナダで長年暮らしてきた俺の周りでは、一度も見たことも聞いたこともない。
何かを学びに行くどころか、簡単な仕事でお金を稼ぐという目的で日本行きを選ぶ人がほとんどというのが現実だ(とかく英語圏の人々は)。

似たようなことで外国人に言われているのが、

「日本へは旅行や短期滞在、ショッピングへ行くのは最高だけれど、日本の企業に勤めて長くそこで生活するのは無理です」

というもの。

そこには「サービスを受ける側にはなりたいけれど、(日本のスタンダードで)サービスする側にはなれない・やりたくない」という気持ちが裏に込められているんだと思う。


誰でも人から褒められたり喜ばれたりするのは嬉しいものだろうし、それが俗に言われる”存在価値”を認められたと感じるところでもある。

子供が何かをして、親に褒められる。それが嬉しいし、エネルギーにもなる。
そうやって人は自分のためだけじゃなくて、他者の役に立つことで、自分の喜びを得るという経験を積んでいくのだろう。

ところが、それの度が過ぎてしまうと、今度は自分が取った行動で、他者からどう思われているか、とか、他者の視線が気になるようになってしまう。
同じように、他者の役に立つことよりも「褒めてもらいたい」「良い人と思われたい」という、本来の目的から外れたところに中心がずれていってしまい、その反応を求めてサマヨウことにさえもなる。
こういう人を英語では People-pleaser (ピーポー−プリーザー)と称される。

そして日本人は、全般的に言って、他国の人たちよりもそれを気にする度合いが強い。


分かったようなことを書いていると思われるだろうけれど、俺自身がその道を通ってきたことなので、俺の経験を通してしか、これを書いていない。
なので自分が正しいとか、本で学んだような一般論を語っているつもりはないよ。

その自身の経験から言うと、全てのことを日本のスタンダード(と思われていること)でやろうとすることや、それを外国人から求められることは結構しんどいことなのだ。

「あれぇ?日本人なのにそういうことやるんだ!」

のように。

もちろん俺は他者から好かれたいし、嫌な野郎(Asshole アスホール)だとも思われたくない。
けれど、自分が本当はしたくないことをしてまで People-pleaser(ピーポー−プリーザー) になりたくもない。以前はかなりそうだったから、心身が本当に疲れたのだ。

このバランスを取って生きることっていうのが本当に難しいし、様々な経験も必要になってくる。
でも、これはとても大事なポイントだと思う。

じゃあ、他者の目を意識して、他者にどう思われているか気にしたり、他者が喜ぶようなことばかりやったりしちゃダメなのか!って?

いえいえ、そうではない。
人は誰かから喜ばれたり、人の役に立っていると思えることで、生きるエネルギーが得られるというもの。

でも少し前に書いたように「バランス」を意識して、自分がやりたくて自発的に行っているのか、それとも他者の目や、自分がどう思われているかだけを気にして行ったことなのか、その”感じ方”を自分が冷静に気づいていれば良いんじゃないか。と俺は思う。

何度も何度もそれを経験し、自己嫌悪や自己反省を繰り返した先にしか辿り着けないところは、きっとあるんだよ。

また、なんとなく始めたことで、成り行きのまま他者から期待されている(と自分がそう思っていることだけのほうが多い)ことも、やりたくないときはしなくたって良いんだよ。

というのが俺の今の考え方ダス。





冬眠しない街のリス