オーストラリアの看護師で、死期が迫る患者さんたちの緩和ケアを担当していたブロニー・ウェアさんという人が出版した本が話題になって久しい。

彼女が担当していた患者さんたちが、正に死を間近にした際、彼・彼女らの人生で「人生で最も後悔していること」を記した内容。

この本の要点としては『自分の人生で5つの後悔』が取り上げられているようだけれど、著作権のこともあり、俺はその中で気になった一つだけに着目したい。

それは、『自分の人生で5つの後悔』のうち、最も挙げる人が多かったという

「なんであんなにも一生懸命に働いたんだろう」

というものだ。

著者のブロニーさんは、自身のウェブサイトの中で補足として、
「この後悔はほとんどの男性患者に見られたもので、またそのほとんどがシニアの方々。
女性にも同じような後悔は見られたけれど、彼・彼女らが懸命に働いていた時代は、女性が”一家の大黒柱(稼ぎ頭)”という立場にないのが一般だったので、この後悔は必然的に男性に際立った」
とある。

そう後悔した人たちも、一生懸命に働いたこと自体を後悔しているわけではなくて、
「彼・彼女らの子どもたちが幼い頃に一緒にいられる時間がほとんどなかったこと」
と、
「彼・彼女らの大切なパートナーと一緒にいる時間が、気づいたらほとんどなかったこと」
だという。

これを見たり聞いたりした多くの人たちが、

「そうか、働いてばかりいては、身近な家族との尊い時間がなくなってしまうんだな。 それが、死ぬ間際の一番大きな後悔になるんだな。」

そう感じることだろう。

オーストラリアの人たちでさえそう後悔するくらいなのだから、より勤勉に、より長時間働く日本人には、尚更のこと当てはまることだろう。

でも、こんな見方もあるんじゃないかな。

上記の後悔、これは働き盛りの頃に一生懸命に働き、家族との時間がほとんどなかった人たちのもののようだ。
まあ言ってみれば、一般的なものかもしれない。
けれど、その働き盛りとされる頃、何らかの都合で、たとえば介護が必要な状態で長年過ごした後、同じように死期が迫ったとする。
そういう人たちは、大いに家族との時間があり、コミュニケーションも十分あった人生だったとしたら。

もし、俺がそういう立場だとしたら、こんな風に後悔するような気がする。

「家族と過ごす時間が惜しいくらい、外に出てバリバリ働きたかった。そして、毎晩のように仕事の後は、同僚とハシゴ酒したかったなあ」

家族との十分な時間があったからこそ、対極にあるような、仕事に没頭する人生を送ってみたかった、と。

だから、そのナンバー1に挙げられた後悔も、決して正解というわけでもなければ、誰にでも当てはまるわけでもないと思うのだ。

結局のところ、俺が思うことは、「自分が経験できなかったこと」「やりたかったことなのに、人生でやれなかったこと」が終幕迫るときに”後悔”となり得るんじゃないか、と。

俺自身は”後悔”は悪いことではないと思うし、”後悔”のない生き方や人生などはあり得ないとさえ思っている。

なので、結局のところ、できることといえば、”より後悔の少ない”生き方になるように行ずるだけなのかな。

それは、たとえば「何をしなかったら自分はすごく後悔するのかな」ということの優先順位を明確にするとかね。